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【本の街】No. 7 「いい音」とは?(I)

レコード、CDなど媒体の如何に関わらず、音楽を再生して楽しまれておられる方々は、常に「いい音」で音楽を楽しみたいと考えられているのではないでしょうか。

一口に「いい音」と言っても、具体的に「いい音」を定義することは困難であり、それは、ほとんど不可能であるようにも思えます。

しかし、再生や録音の技術の目標としての「いい音」が無ければ、技術開発の必然性が失われかねませんので、たとえ不完全ではあっても「いい音」の定義が──少なくとも技術開発をする側では──必要となってきます。

その「いい音」の一つの定義として、オーディオの世界には「原音再生」と呼ばれる言葉が、まるで原初の昔からそこにあったかのようにして、存在しています。

おそらくは宣伝文句として考えだされた言葉なのだと思われますが、いつのまにか言葉だけが独り歩きを始め、今ではオーディオが関わるあらゆる場面で、一つの基準のようにして使われています。

この「原音再生」という言葉が使われるとき常に問題となるのが「原音とは何か」という問題です。

当然ではありますが、たとえ同一の生演奏を聴いたとしても、聴く場所によって音は変わりますから、そもそもどの場所で聴いた音が原音なのか? という問題があります。仮に場所を指定したとしても、誰が聴いた音なのか? など議論の種には事欠きません。

このような議論は──およそ非建設的に──延々と繰り返されてきたのですが、結論への道筋がいつまでも見えて来ないため、ある時誰か、おそらくは評論家の手によって「原音とはマスターテープの音である」という宣言がおごそかに成されました。

このようにして「原音再生」というものは「原音≒マスターテープの音」を忠実に再生するもの、という認識が、狭い世界の話とはいえ、成立したのです。

しかし、ここでまた新たな疑問が生じてきます。一体そのマスターテープの「音」はどこに、どのようにして存在しているものなのでしょうか。

マスターテープの「波形」であればともかくも、「音」を出すためには、どうしてもプレイヤー、アンプ、スピーカー等の再生装置が必要となり、これらの再生装置によって、せっかくの「マスターテープの音」は変質を余儀なくされてしまいます。

また、聴く場所の話へと堂々巡りしてしまいますが、再生した音をスピーカーの前1mで聴くのか、5m離れて聴くのかによっても音は違ってきますから話は混迷を極めてきます。

次回は、この辺りの事情についてもう少し考えてみたいと思います。

〔本の街 2003年7月 掲載〕

【本の街】No. 6 レコード無駄話うらおもて

「ブラッサンスが唄った珍盤が最近パリで発売された」と言ってエイプリルフールに訪ねてきた友人に一杯喰わされる話で始まるのは、塚本邦夫の名著『薔薇色のゴリラ──名作シャンソン百花譜』でしたが、コレクターの話は、とかく珍盤、希少盤に止まらず、レコードにまつわる有りもしない話にまで発展することしばしばです。

昔の話であることをいいことに、怪しげな話がまかり通り、ときによっては尾鰭がついて広まっていくのですから手に負えません。もっとも、お客さまからこのような話を聞くことができるのもレコード店主の役得の一つかもしれません。

さて、バッハの《マタイ受難曲》は言わずもがなの名曲ですが、その全曲録音の中でも吉田秀和氏をして「このペテロの否認の部分で泣かない者は音楽を聴く必要がない人である」と言わしめ「決定盤」の地位を不動のものとしているのがカール・リヒターによる1958年のArchive録音です。

そのリヒターが師事したかつての聖トマス教会のカントール、ギュンター・ラミンに全曲録音が残っていないことは、東ドイツのEternaレーベルから発売された17cm盤2枚(520090/91)というわずかな録音が素晴らしいだけに一層残念に思われます。

──もっともラミンは、1941年という困難な時期にSP盤16枚にも及ぶ全曲に近い録音を残してはいるのですが、ナチスの検閲に遭い、反戦的言辞などを中心に全体の3分の1にまで及ぶカットを余儀なくされているのです。──

一方戦後のLP録音は、西側のドイツ・グラモフォンと東側のドイツ・シャルプラッテンとの共同製作によるもので、全曲の録音を目指し1955年の暮れからライプツィヒで録音が始められました。しかし、翌年2月に予定されていた第2回収録の直前にラミンが急逝し、計画は頓挫してしまったということです。

この辺りのいきさつについては、後に再発されたEternaの30cm盤(820390)のライナーノートに詳しいのですが、想像力たくましいI氏は、この先のことをもっともらしく推論され、大変面白いものでしたので以下に紹介させていただきます。

──「1955年と言えば西ドイツ、ミュンヘン・バッハ管弦楽団が設立された年です。しかしEterna/Archiveの録音スタッフは設立間もないリヒターのミュンヘン・バッハを起用せず、敢えて当時東ドイツに居たラミン
に全曲録音を託したのではないでしょうか? しかし不幸にして全曲録音の夢は叶いませんでした。数年後、Archive はラミンの録音のときに指名したソロ歌手、ゼーフリートとテッパーを再度起用し、カール・リヒターの下、全曲録音を完成させます。しかし、もしラミンがもう少し生きていたなら、当然ラミンの全曲盤が完成して、リヒターの『決定盤』はあるいは生まれていなかったのかもしれませんね。」──とI氏は私の方を見ながら片目をつぶるのでした。

〔本の街 2003年5月 掲載〕

【本の街】No. 4 ジャケットの効用?(III)

 「僕という人間は偽りだ、真実を告げる偽りだ」。言葉の魔術でベル・エポックを席捲したジャン・コクトーは、「20の顔を持つ男」の異名通り、あらゆる芸術の分野にわたって才能を発揮しました。中でも美術、特にデッサンは、詩と並んでコクトーの重要な表現手段であったといえましょう。

 コクトーのデッサンは、時に軽業師と呼ばれ、虚偽と諧謔、レトリックで世間を煙に巻いた彼の言葉と比べると、より直線的な──逆説的にはやや奥行きを欠いた、平明な──表現のように感じられますが、「素描」という通り、コクトーの閃きがより身近に感じられる表現形式であるとも言えます。

 そのコクトーのデッサンは、コクトーが格別親しかった「フランス六人組」をはじめ、レイナード・アーンやエリック・サティなどコクトーと交遊のあった多くの音楽家のレコードジャケットを飾ることになります。

 しかし意外なことにコクトーによるジャケットのためのオリジナルデザインというものはごく僅かで、あくまでもジャケットデザインのイラストとしてコクトーのデッサンが──文字通り『Dessins』から──使われることが多かったようです。

 これらコクトーのデッサンの中でも、おそらくはこのアルバムのために書き下ろしたと思われる『フランス六人組』(Columbia FCX 264-5)のデッサンは秀逸です。興味深いことに、このアルバムのアメリカAngel盤は、同一のデッサンを使用しながらもカラフルな多色刷りのタイポグラフィ的デザインを採用しています。しかし、アイボリーに赤1色刷りのフランス盤の醸し出す雰囲気に遠くおよばないと思うのは私だけでしょうか。

 また、コクトーの数少ないオリジナルデザインのジャケットとしては、初演者ベルト・ボヴィによるモノドラマ『声』(Pathé DTX 288)や、ミヨーの《世界の創造》《屋根の上の牡牛》(Discophiles Français 530.300)の自作自演盤などがあり、タイポグラフィとは一線を画したコクトーのデッサンの妙味を堪能することができます。

〔本の街 2003年2月 掲載,ジャケットギャラリーより図版引用〕

【本の街】No. 3 ジャケットの効用?(II)

カッサンドル(A. M. Cassandre) は「ノルマンディー号」や「北方急行」などの、アール・デコ期を風靡したポスターの作者として知られていますが、1950年代中頃から60年頃にかけて、かつてポスターのデザインを手掛けたこともある、フランスのPathé-Marconi 社(Columbia およびLa Voix de Son Maitreレーベル)のジャケットデザインを手掛けていたことはあまり知られていません。

そのデザインは「初期LPデザインの常套手段だったイラストによるイメージやポートレート写真に頼ることなく、ひたすら文字のみによって音楽(あるいは演奏家)の個性を喚起させようとする果敢な精神がここにはある。」(『デザインの現場 増刊──12インチのギャラリー』より)という言葉に集約されていると言えましょう。

単純明解な文字構成を特徴として、タイポグラフィやカリグラフィよって提示されるデザインは、視覚的な効果を誇るだけではなく──いみじくもカッサンドル自身が語ったように──「詩的」なエモーションを想い起こさずにはおきません。

巷間カッサンドル・ジャケットと呼ばれる、カッサンドルの手になるデザインはゆうに100点を超え、なかにはジャケットだけを各国向けにデザインするといったような凝ったことまで行われていたようです。

これらの中から代表的なデザインを挙げれば枚挙に暇がありませんが、自らデザインしたペーニョ体を効果的に用いたジェラール・スゼーのラヴェル歌曲集(FALP 549)や、タイプフェイスの妙味を堪能できるオネゲルの《世界の叫び》(FCX 649)、演奏内容と相俟って高貴さを具象化したかのようなジョルジュ・エネスコによるベートーヴェンのクロイツェル・ソナタ(FC 1058)などが印象に残っています。

また、エクサン・プロヴァンス音楽祭におけるモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の舞台装置(カッサンドルがデザイン)を思わせる、マルケヴィッチによるバッハの《音楽の捧げもの》(FCX 567)は、数少ない非タイポグラフィ的なデザインとして忘れ得ぬものの一つです。

〔本の街 2003年1月 掲載,ジャケットギャラリーより図版引用〕

【本の街】No. 2 ジャケットの効用? (I)

 初回はレコードコレクターについてあれこれと言を弄しましたが、では一体レコードはなぜこれほどまでに多くのコレクターを惹きつけるのでしょうか。実際この疑問を解明するのは、簡単なようで存外難しいと感じています。

 「妙なる音さえ鳴るのであれば、中身の保護が目的のジャケットのデザインなどどうでもよい」とおっしゃる本格派?コレクターがいらっしゃるのは百も承知ですが、そこを敢えてレコードジャケットの魅力から考え始めてみたいと思います。

 確かにジャケット本来の目的はレコードの保護にあったのでしょう。SP時代の無味乾燥な紙袋、LP黎明期の共通ジャケット、初期ドイツグラモフォンなどに見られるタイトルとライナーノートだけの無愛想なものなど、いずれもこの役目だけは立派に果たしています。

 しかし時は20世紀後半、デザインというものが消費促進に大いに活用されたのは、レコードとて例外ではありませんでした。レコードジャケットもパッケージデザインの一分野として活況を呈するようになったのです。

 しかし、クラシック音楽愛好家の生真面目さに所以するのか、あるいは大手レコード会社の怠慢であるのか、「クラシックレコードのジャケットには、演奏家のポートレート、風景写真、名画の3つのパターンしかない」などと揶揄されているのも事実です。しかも、この傾向がCD全盛の今日にいたるまで、伝統として脈々と引き継がれているの、いささか嘆かわしいことです。

 とはいえ、無限とも思える夥しい数のLPレコードの中には、ジャケットだけでも手元に置きたくなるような秀逸なデザインのものが少なからずあるのも、また事実です。

 アメリカのベン・シャーンやアンディ・ウォーホル、ソウル・スタインバーグのように、一枚の絵画作品としても十分に見応えのあるものもあれば、イラストとタイポグラフィを駆使してデザイン的に優れたものなども挙げることができます。しかし、私自身はどちらかと言うと、ヨーロッパ、それもアール・ヌーヴォーからアール・デコを消化してきたフランスのデザインにより心惹かれるものがあります。

 そのフランスのジャケットデザインを語る上で避けて通ることのできないのがアトリエ・カッサンドル(後アトリエ・ジュベール)とジャン・コクトーではないでしょうか。

〔本の街 2002年11月 掲載〕

【本の街】No. 1 レコードコレクターあれこれ

蒐集家──コレクターと呼ばれる人たちがいつのころから存在したかは定かではありませんが、この世に「モノ」が存在する限り、コレクターがいなくなるということはないでしょう。

クラシックレコードの世界もご多分にもれず多くのコレクターが存在し、殊にCDの普及とともに、レコード界隈にはより一層ひたむき(マニアック)なコレクターが残ることになりました。また、ここ10年ほどは世界的にCDの普及が進んだこともあになってきています。

クラシックのレコードコレクターと一口に言いましても、蒐集の動機は十人十色。「CDよりも音が良い」「レコードでしか入手できない」などといった形而下的なものから、「どこがという訳ではないけれども、CDはどうも蒐集の対象として芸術性に欠ける」といった何やら深遠なものまで様々です。

動機が十人十色なのですから、蒐集の対象もまた十人十色であろうはずですが、不思議なことに蒐集の対象となるレコードは意外にも偏っているように感じられます。

このような傾向はレコードの分野に限ったことではないのでしょうが、特にレコードコレクターは希少なものを求める傾向があります。無いものねだり、とはよく言ったものですが、希少であればあるほど、そして、同好の士が知らないようなレコードであればあるほど、そのレコードに対する蒐集欲、所有欲は一層高まるようです。

逆説めいてきますが、あるコレクターにとって「これが一番良い演奏だ」と思っていても、そのレコードが誰にでも手にできるほどあちらこちらで売られているとなると、なぜかそのレコードを買おうとする手が止まってしまい、挙句には「やはりこれはとびきりの名演奏ではないのではないか」と冗談のような話になってしまいます。

趣味が高じて、ひょんな事からレコード店を始めることになってしまったとはいえ、今だにコレクターを標榜する私にとって、このような話は身につまされるものがあります。

とはいえ所詮、蒐集──コレクションの動機の根源は自己満足。誰が何と言おうと唯我独尊、自分の好きな演奏を求めてゆくコレクターがもっと増えることによって、この世界もより一層面白くなるのではないかと思う今日この頃です。

〔本の街 2002年10月 掲載〕


【Music Bird】神保町と文化と音楽と

わたしの店のある神保町は古くから本の街として知られています。神保町の周辺には大学や教育機関が多かったことから、明治中頃にはすでに古書店街としての素地ができていたようです。その後、本の街として発展の一途を辿っていた神保町も、大学の郊外移転やバブル経済による荒波、活字離れなどの影響から、書
店の数を徐々に減らしてきました。

ところが、2000年を前後してジャンルを特化したり、展示に工夫を凝らした新しい形の書店が少しづつ増え、レコード店も専門店と呼ばれる店舗が神保町に次々と開店しました。便乗するようにして、私が店を開いたのもこの頃のことです。

そんなこんなで密かな活況を呈していた神保町ですが、ここのところまた新たな風が吹いてきています。

それというのは、ここ数年、神保町にジャズ喫茶が次々と出店されているのです。ジャズ喫茶といえば、かつて神保町にはジャズ喫茶世代の方なら誰もが知っている「」という名店がありました(ジャズ喫茶世代でもなく、余り良いジャズの聴き手でない私でさえ何度か足を運んだことがあるほどです)。しかし、神保町の衰退に歩を合わせるかのようにして「響」は閉店し、神保町のジャズの火は消えたかに見えました。十数年を経た今、わずか数年の間に再びジャズ喫茶が5店にまで増えたというのは、何か気まぐれな偶然なのか、それとも「響」の蒔いた種が今になって花開いたということなのでしょうか。

隣町の御茶ノ水には楽器屋街もあり、今や神保町は音楽の街にもなりつつあるようです。しかし、私にとって神保町は今も昔も本の街であり、なにより「文化」のある街であってほしいと願っています。

文化は単純な経済活動だけでは成り立ちませんし、古いものを壊して新しいものばかりを作っていても生まれてきません。そうかといって、古いものを珍重して新たな価値観を否定していても、それも文化とは呼べないでしょう。古いもの、新しいもの、どちらとも言えないようなもの、それらの中で人々が生活し、経済活動を行い、これらが交じり合い、相互に影響しあっていることそのものが文化であり、写本時代の古書からどぎつい原色が踊る最新の雑誌まで、玉石混交の本の並ぶ神保町こそ、このような文化が根付くには恰好の地と言えるのではないでしょうか。そのような中に彩りの一つとして音楽がある、というのが私の願っている文化ある街なのです。

ところで、神保町という町名の由来は、今の神保町交差点近くに、神保伯耆守の広大な屋敷があったことからきたのだそうですが、神保という言葉については、古く中国では「神の依る所を神保となす」と言い、日本でも神社の領有地のことを指したのだそうです。そこから東西文化の錯綜をいとわず誇大妄想的解釈をほどこすと、神保町は音楽、芸術の神「ミューズ」の依る所と考えてはいささか想像が過ぎるでしょうか。

そういえば、神保町から錦華通りを挟んで向かいにある猿楽町の田来は、世阿弥を祖とする猿楽師(能楽師)観世太夫と観世一座の人々の屋敷があったからであったとか。こんなところにも神保町文化の源流が流れているのかもしれません。

〔Music Bird プログラムガイド 2009年12月 掲載〕

【Music Bird】私的海賊盤考

レコードという媒体によって音が記録できるようになったときから、海賊盤というものが出回ることは、ある種の必然であったといえます。しかし、法律が余りにも複雑であったり、一度ならず入手してしまった経験があるためか、私としては避けるようにしている話題でもあります。

ーロに海賊盤といっても、正規の音源をコピーしたもの、演奏会を隠し録りしたもの、FM放送などを音源としたものから、複雑な著作権によって、結局どちらだか分からないグレーゾーンのものまで種々様々です。ただ、これらに共通して言えることは、少なくともこれらの音源の権利者(主には作曲家と演奏家)の権利を無視し、侵害しているということです。

コンピュータの発達によって、現在では全く音の劣化していないデジタルコピーを作ることが可能となり、実際巷には、海賊盤と思われるコピーCDが驚くほど多く出回っています。法治国家に籍を置く以上、これらの著作権を侵害した行為は厳に慎まれるべきであり、そのような行為に対して取締りや啓蒙活動が行われるべきであるのは言うまでもありません。

しかし、芸術作品と呼ばれるものと、このような(若干利権を感じさせる)法律による規制というものが、今ひとつ馴染まないように感じてしまうのもまた事実です。

バッハによるヴィヴァルディの編曲、モーツァルトによるバッハの編曲、ストラヴィンスキーによるペルゴレージの模倣、あるいはゴッホによる北斎の模写、アンディ•ウォーホルのキャンベル・スープやマリリン・モンローなど、今であれば著作権侵害ととられかねないことが、芸術の上では繰り返し行われています。

ところで、レコードコレクションの世界では時として面白い現象が起こります。それは、希少なLPの音源がCDなどによって復刻され、容易に聴けるようになると、それらによって演奏の真価を知った人々が、何倍、何十倍も高価なオリジナルのLPを探し求めるというものです。

この現象を逆説的に捉え、手元に置いておきたいと思わすにはいられない質の高いCDを制作すれば、そのコピー品あるいは海賊盤の価値は著しく損なわれ、逆に海賊盤によって演奏を知った人々が、質の高い正規盤を求めるのではないか、と考えるのはいささか楽天的に過ぎるでしょうか。

いずれにせよ、こと芸術に関しては、より良いものをつくる姿勢こそが何よりも重要なことであり、真に芸術的なものの前では、模造品はかけらほどの力すら持たないものである、と私は信じているのです。

〔Music Bird プログラムガイド 2008年10月 掲載〕
写真:2人の大作曲家による著作権侵害!?作品

【Music Bird】サンクト・ペテルブルクの幻影と2人の音楽家

 プーシキンが『青銅の騎士』に詠い、ゴーコリがネフスキー大通りを讃え、ドストエフスキーがその虚構を見抜いたピョートル大帝の夢の都、サンクト・ペテルブルクは、およそ300年前に突如として作られた人工の都でした。

 ロシア帝国の首都となったペテルブルクには宮廷文化が花開き、プーシキン、ドストエフスキーをはじめとする多くの文人、チャイコフスキーをはじめとして、リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと続く多くの音楽的才能を輩出しました。
しかし、20世紀に入るとペテルブルクは多くの災厄──まるで、プーシキンが描いたネヴァ河の氾濫のように──を蒙ることになります。第1次世界大戦によるペトログラードヘの改名とそれに続く革命。モスクワヘの再遷都。レニングラードへの再びの改名と第2次世界大戦におけるドイツ軍との1年以上におよぶ市街戦など。
 これらの災厄によって、一時は隆盛を誇ったペテルブルクの音楽文化も次第に力を失っていきます。よく知られたピアニスト、ソフロニツキー、ユーディナ、それに作曲家でもあったショスタコーヴィチなどは、ペテルブルクで教育を受けながらも、モスクワで活躍した音楽家でした。

 このような中、レニングラード(ペテルブルク)には2人の大きな音楽的才能が40年余りの間をあけて生まれることになります。

 1人は、50余年に亘ってレニングラード・フィルの常任指揮者を務めたエフゲニー・ムラヴィンスキーです。ムラヴィンスキーは亡くなるまで常任指揮者の地位に留まり、このオーケストラをロシア随一、いやむしろ世界有数のオーケストラヘと育て上げました。
 もう1人は、モスクワの俊英を尻目に、若干16歳でチャイコフスキー・コンクールを制したピアニスト、グリゴリー・ソコロフです。モスクワの音楽筋、審査員、それに有力な出場者の誰もが──おそらく本人ですら──このレニングラードからやってきた若者が、難物の協奏曲2曲(チャイコフスキーの第1番と、いくつかの技巧的なものから選んだもう1曲──この時はおそらくサン=サーンスの第2番)を易々と弾いて優勝をさらうとは思っていなかったことでしょう。

 この年の全く離れた2人の天才──このような才能を前にして他に浮かぶ言葉がないのです──に共通する点は、生まれた街、レニングラードヘの強固な結び付きです。

 ムラヴィンスキーもソコロフもレニングラードを離れることを好まず、ムラヴィンスキーは国外はもとより、おそらく魅力的な提案があったであろうモスクワにすらほとんど関心を抱かず、終生レニングラードに暮らしました。

 一方のソコロフはさらに先鋭的で、モスクワを訪れたのは、チャイコフスキー・コンクールの時ただ一度で、その後は、現在までを含めて(現在はドイツで暮らしているようです)ただの一度もモスクワに足を踏み入れていないのです。

 およそ上からの命令が絶大であったソ連時代に、これほど徹底してモスクワを避けた──あるいはレニングラードを離れなかった理由とは一体何だったのでしょうか。

 私はそこに、他とはかけ離れた2人の個性と同時に、大地に根ざした伝統都市モスクワを嫌い、西洋を目指して造られた人工都市サンクトペテルブルクの、美しさと幻影に満ちた矛盾と同質の何かを感じてしまうのです。

おお、強力な運命の支配者よ!
このようにお前は深淵の眞際に、
高いところに、その鐵の馬勒をもって
ロシヤを後足で立たしたのではなかったか?
──プーシキン『青銅の騎土』より

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〔Music Bird プログラムガイド 2008年3月 掲載〕
写真:ソコロフ畢生の名演、《ゴルドベルク変奏曲》の演奏会録音