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【welcart】welcartのメジャーアップデートにようやく対応

当店のWebサイトはWordPressで作られおり、ショッピングカート部分はwelcartというECプラグインを使用しています。Wordpressは強力なCMSで、さまざまなプラグイン(welcartもその一つ)が用意されている他、カスタマイズも比較的容易でSEO対策も優秀なため、そのWordpress上で動き、原則無料(制作・カスタマイズの有料オプションあり)のwelcartはとてもありがたいプラグインなのです。

そのwelcartが、このたびVer. 2.7へアップデートを行ったのですが、そのアップデートがデータ構造まで変更するというメジャーなものだったため、当HPもその煽りを受けて様々不具合が発生する事態となりました。

以下備忘録として、症状と行った対策を書き記しておきます。

1. welcartデータの更新が途中で止まる
Ver. 2.7へアップデートした後、welcartデータの更新が必須となりますが、その更新作業が25%ほどで止まってしまいます。実はこの症状、Ver. 2.6の時にも起こりましたが、その時はwelcartレスキューへ連絡したところ修正されましたので、今回はバージョンアップを待ちましたが、Ver. 2.7.2になっても対応されなかったため、再びwelcartレスキューへ連絡。Ver. 2.7.3で無事データ変換が完了しました。

2. NEW ARRIVALリストが表示されなくなる
次の検索結果が表示されなくなる原因と同じなのですが、当WebpageはWelcartがカスタムフィールド(メタキー)に作っている「_itemCode」という項目を参照して、welcartのアイテムか通常の記事なのかを判断していた他、「NEW ARRIVAL」では並べかえ用のキーに使用していました。
この「_itemCode」が原因と分かるまでに少し苦労しましたが、実は随分前から「Welcart 2.7 のためのカスタマイズ修正」というドキュメントが発表されていたようです。マニュアル・ドキュメント類はきちんと読まないといけません。
NEW ARRIVALの並べかえは日付がメインで「_itemCode」は同一日時だった場合にのみ意味のある値でしたので、Wordpressのメタキー「ID」で代用することにしました。

3. レコード(welcartアイテム)の検索結果が表示されなくなる
上記同様「_itemCode」をwelcartアイテムの確認に使用していたのが原因でした。上手い具合に、すべてのwelcartアイテムに並べかえのためのメタキー文字列「Sorting」が埋め込んでありましたので、「_itemCode」の代わりに「Sorting」を参照することで解決しました。「Sorting」はWelcart内部のメタキーではなく、独自に追加したメタキーだったため問題なく使用できました。

4. 通常記事の検索結果が表示されなくなる
前述の通り当Webpageは「_itemCode」の参照によってWelcartアイテムの場合と通常記事の場合とで表示方法を変えていたのですが、検索用窓も別々に設定しており、通常記事検索とレコード(商品)検索が個別に行えるようになっていました。上記の通りレコード検索の方は復旧したのですが、通常記事検索は復旧しませんでした。
これは原因に気づくのに苦労しました。あれこれと勘でいじくってみても復旧しなかったのですが、ふと検索後のURLを見てみると、

 https://classicus.jp/category/[homeurl]?noitem=y&s=シェーンベルク

となっています。どうやら<form>内のショートコードで設定した「action=”[homeurl]“」が上手く働いていないようです。ひとしきり何が原因か考えたりソースコードを眺めたりしてみたのですが、よくわからず、さりとてステップ・バイ・ステップで原因を探るのも面倒なため、「action=”/”」としてお茶を濁してしまいました。デバッガーを使えばたちどころに判明するのかもしれませんが、使ったことがないものですから…。これは、welcartのアップデートが原因ではなかったかもしれません。

以上、ほぼ丸一日を費やしてようやく通常状態へと復旧した次第。今回はWelcartが使用していたメタキーの扱いが大幅に変更されたため、カスタマイズした部分で大きく影響を受けてしまいました。


争いなど芸術の前では

一時は話題の中心だったウクライナ問題も、ここ最近はすっかり鳴りを潜め、巷間ウクライナ疲れなどとも言われています。ロシア・ピアニズムに心酔し、ロシア芸術を愛するものとしてはなんとも複雑な胸中ではありますが、現在のロシア政府が極めて不法かつ非人道的な行為によって侵略を行っているという事実は、時が過ぎても薄らぐことはありえません。

とはいえ、ウクライナに対して形となるほどの支援をする甲斐性も持ち合わせないのですが、せめて気持ちだけは反戦、反侵略者、反独裁者でありたい、という思いでレコードに針を落としています。

シェーンベルク 《ナポレオン・ボナパルトへの頌歌》,弦楽三重奏曲エレン・アドラー(reciter) ルネ・レイボヴィッツ(cond) ヴィレ...

《ナポレオン・ボナパルトへの頌歌(Ode to Napoleon Buonaparte)》は、第二次世界大戦が転機を迎えつつあった1942年、シェーンベルクがバイロンの檄詩へ作曲したものです。

若きバイロンは、自由と平等を掲げて王政を打ち破ったナポレオンが、事もなげに皇帝へと即位し、実のところただの覇権主義者の俗物であったことへの幻滅と怒りを、激しい詩へと表しました。ここで言う「頌歌」は、もちろん讃えるものではなく辛辣なアイロニーです。ナポレオンへの幻滅という意味では、ベートーヴェンの《英雄交響曲》も有名です。

シェーンベルクはその内容を、政権を簒奪し独裁国家を作り上げたヒトラーになぞらえ、見事な効果のシュプレヒシュティンメを用いてバイロンの詩に相応しい激烈な音楽を作曲します。シェーンベルクは「この曲が、今度の戦争によって人類の中に目ざめた罪悪への苛立ちを無視してはならない」と作曲の動機を述べていますが、この苛立ちはまさに現在へと繋がっています。

この曲の演奏では、ジョン・ホートンとグレン・グールド、ジュリアード四重奏団による素晴らしい録音が知られていますが、余りにも見事に設計され、演奏されているため、美しすぎる音楽となっている嫌いがあります。それほど多くはない録音から私が最もバイロン卿とシェーンベルクの心情を表していると感じるのは、このDial盤です。エレン・アドラーの女声による朗唱が色を添えます。

コーリッシュ率いるプロ・アルテ四重奏団他による、Dial盤と同時期のライブ録音CDも緊張の漲る素晴らしい演奏ですが、音はお世辞にも良いとは言えないものでした。

F. ジェフスキ 《不屈の民》の主題による変奏曲ウルスラ・オッペンス(pf)茶-模様,ステレオ作曲家監修による録音,海外盤では唯一のレコード...

現在ヨーロッパなどでは、ウクライナへの共感を表す曲としてジェフスキーの《「不屈の民」による変奏曲》がしばしば演奏されているそうです。

この曲ははチリの革命歌「不屈の民」を主題とした長大かつ超絶技巧を要する曲ですが、主題が平明であることや口笛を使うなどユーモラスな面があり、現代音楽としては異例の人気曲なのだそうです。

ジェフスキー自身は政治的思想を隠そうとせず、この曲に関してもチリの軍事クーデターに限ったことではなく、西洋文明へのアンチテーゼが織り込まれていると言われています。ジェフスキーにしては奇抜な部分の目立たない真っ当なピアノ変奏曲であることが、より一層曲に対する思い入れの強さを感じさせます。

日本では高橋悠治による演奏で知られるようになりましたが、近年は作曲者以外にも多くのピアニストが演奏、録音しています。日本での公演や日本人ピアニストによる演奏も増えていて、私も数年前にイゴール・レヴィットによる演奏を聴きました。ユダヤ難民、人権活動家としても知られるレヴィットが演奏して間もなくに、このような出来事が起こったのは何か象徴的です。

なお、LPレコードは委嘱初演者ウルスラ・オッペンスによるものと、前述高橋悠治のものしかないと思います。

いずれの曲も、時の不条理に対する抗議の意思を強く感じさせるものですが、音楽として聴いていると、その芸術としての絶対的な美しさにすっかり気持ちを持っていかれてしまい、芸術というものは一体、思想というものとどのように連関し繋がっているのだろうか、あるいは絶対的な美といものは独立して屹立しうるものなのか、という問いすら浮かんできます。

「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」と言われますが、果たしてウクライナ問題はどのような終幕を迎えるのか。せめて人類に叡智というものが少しでも残っていることを期待したいのですが…。


連休もそろそろおしまいですが

何も休日を使って人混みへと出かけなくても良いだろうに、などと毒づきながらレコードの整理整頓でもとお店を開いてはみたものの、別件が舞い込みその仕事に掛かりきりとなってしまうも、その仕事も徒労となったところで連休が終わりそうなこの頃。

新たなレコードを追加したいのはやまやまですが、在庫の充実化(つまりジャケットをスキャンしてウェブ上で画像を見られるようにして、さらには間違えの訂正や価格の見直しをする)も図りたい、さらに山積みとなったレコードをきちんと整列もさせねばならぬ、と二律どころか三律あるいは四律背反の解決不能の難題に陥っているところで、それも一歩も進まず。

まことに充実した連休を過ごしております。


音楽と精神性なるもの

昨日facebookの投稿で知ったのですが、ピアニストのアレクセイ・リュビモフがモスクワで行ったコンサートの前半で、ウクライナの作曲家シルヴェストロフの作品を弾いたところ、後半になって警官が闖入してコンサートを中止させたのだそうです。

ウクライナの惨状を思えば、モスクワでコンサートができている、それだけでも過分に過ぎることなのかもしれませんが、それにしても時の権力が芸術活動にこれほどあからさまな干渉をしてきたことに底知れぬ怖ろしさを感じるとともに、その横暴にはただただ呆れ果てるばかりです。

動画を見ますと、シューベルトの即興曲第1番の冒頭で警官が中止を叫んで聴衆が帰りかけますが、リュビモフは演奏を続け、警官の制止と監視の中第2番を最後まで弾ききり、万雷の拍手を浴びている様子が見て取れます。

外面的な事実を追えば、たった2人の警官によって(その裏には幾千幾万の権力の追従者がうごめいているのでしょうが)コンサートは中止の止むなきに至り、リュビモフや聴衆がその横暴に対して何か物理的な抵抗ができていたわけではありません。しかしリュビモフの演奏や聴衆の振る舞いからは声にならない感情や想い、精神の発露といったものが感じられたのもまた確かです。

音楽という芸術は、カントがいみじくも「熟考するためのものを何も残さない」と言ったように、言語化できないという意味において、何か主義主張を表明することは難しく、故に政治活動、反体制運動などを実効的に行うことも困難です。それは、ソ連時代、マヤコフスキーやメイエルホリド、ミホエルスといった物言う芸術家が次々と粛清されていく中、音楽家はおそらくただの一人も粛清されなかったことからも、権力者から見た音楽芸術の立ち位置を推し量ることができます。

それにも関わらず、音楽芸術は人間が生活していく上において必要不可欠な何か、「精神性」とでも呼ぶべきものを備えており、その「精神性」は物言わぬ形で我々に影響を与え、権力側ばかりではなく、反権力の側にもさまざまなものを訴えかけているように思えるのです。

かねてよりクラシック、それも〝レコード芸術〟界隈では、「精神性」という言葉がしきりと使われてきました。かの吉田秀和は「フルトヴェングラーには精神性がある」と言い、宇野功芳は「カラヤンには精神性が無い」と言うのがある種の決まり文句でした。これら評論家先生の名前を出すだけで「精神性」の流行した時代が分かろうというものですが、幸か不幸かその時代がいわゆる〝レコード芸術〟の全盛期と重なったこともあり「精神性」なる言葉は不必要に濫用されてしまうことになります。

残念ながら流行には反動がつきもので、カラヤンを皮切りとして、クライバー、アバドからラトルやドゥダメルへと至る指揮者達の時代に「精神性」という表現はほとんど使われることはなくなりました。対照的にフルトヴェングラーらいわゆる「精神性」時代の指揮者たちは「録音の悪い、古臭い」演奏とされ、今や「精神性ある演奏」は悪い音や情けない演奏を褒めるための慣用句とさえ言われる始末です。

たしかにここで使われている「精神性」という言葉は、端的に言ってしまえば賛美や批判のための道具、それも言葉の定義が曖昧なことによって反論の焦点すらぼやかしてしまうような、まことに都合のよい道具として使われていたように思えます。

では本来の意味での「精神性」とは何か、ということになるとこれは極めて難しい問題となります。カントの芸術論やニーチェの『悲劇の誕生』あたりが足掛かりとはなるのでしょうが、広大無辺な芸術論の中に含まれる概念の一つであると考えられることからも、私ごときが定義どころか議論することすらためらわれるような代物といえます。

とは言え、あれやこれやの書籍をつまみ食いしながら私なりの理解をもって言えることは「芸術とはすなわち精神活動に他ならない」ということです。アリストテレスが「知性や思考がなければ実践(表現)はできない」と言ったように、何かを表現するためには知性や思考といった精神活動は不可欠です。故に、たとえコンピューターも形無しとなるような技術的に完璧な演奏があったとしても、そこに精神活動が不在であれば、それはただの精緻な運動行為であって芸術と呼べるものとは言えないでしょう。

アリストテレスはポイエーシス(創造)の目指すところは最高善、すなわちエウダイモネイン(幸福)であると説きました。このような悲劇的な状況の最中、リュビモフの演奏はもちろんのこと、この世のありとしある芸術活動──精神活動がエウダイモネインへの道しるべとなっている、と信じたいものです。


RCA 17cm EP盤の楽しみ

17cm盤コレクションというと、Ducretet-ThomsonだとかChant du Mondeを思い浮かべる不純な向きもあろうかとは思いますが、ここでご紹介するのはコレクターズアイテムとは言い難いアメリカRCAの17cmEP盤です。

LP黎明期のRCA Victor(以後RCA)は、30cmや25cmの33回転盤、いわゆるLP盤と同時に、同じタイトルを45回転EP盤の箱物セットでも発売していた時期がありました。1枚のLPで聴けるものを、わざわざ複数枚のEP盤を裏返しながら聴くという行為は一見馬鹿げたことのようにも思えますが、そこには音質といった単純な問題のみならず、RCAのEP盤ならではの合理的、あるいは好事家的な理由が浮かび上がってきます。

1940年代末頃、ベータ対VHS戦争(この表現が既に陳腐化しているのが寂しい限りです)にも比すべき、LP対EP戦争があったことは今や余り知られていません。

アメリカColumbiaが記念すべき世界初のLP盤を発表したのは1948年6月のことです。後塵を拝すこと半年余り、1949年2月にRCAは45回転17cmのEP盤を発表しました。RCAがEP盤を採用した理由として、33回転盤よりも線速度を速く取れることによる音質の優位性(ただし17cmのEPでは、LPに比べて内周を使うため、その分線速度の有利は失われていたはずです)や、78回転SPとほぼ同じ時間を収録できることから、これまでSPに慣れ親しんできた音楽ファンが違和感なく移行できることなどが挙げらるでしょう。しかし、実のところ最も大きな理由はライバル会社であったColumbiaが発表した規格をそのまま踏襲することに少なからぬ心理的抵抗があったからではないでしょうか。

かくしてColumbia対RCAのLP対EP戦争が始まった訳ですが、1950年1月、RCAは早くも33回転LPを発売し、Columbiaもポピュラー音楽を中心にEP盤を充実させていくことによって、LP対EP戦争は意外にもあっさり収束へと向いました。RCAはその後もEP盤セットを発売し続けましたが、1950年代半ばにはその発売も行われなくなり、内心忸怩たるものはあったにせよ、結果的にRCAはColumbiaのLP規格に合流することになります。

歴史的な経緯はこれくらいとして、順を追ってRCA EP盤の底知れぬ魅力を探っていくとにしましょう。

1.音質優位性
前述の通り、33回転LP盤に比べ45回転盤の方が線速度が速い(が盤が小さい事においては不利)がゆえの高音質という考え方が一つあります。これは、体感しにくいこととはいえ異論のないところです。

ここで注目したいのが盤の材質の問題です。およそLPの初期プレスはビニールの材質、プレスの品質において余り褒められたものではない傾向があり、それはRCAのLM盤(LP盤)とて同様です。ところが、こと初期RCAのレッドビニル盤に限っていうと、サーフェスノイズも少なくプレスの品質においてもLP盤を上回っているように感じられます。プレスが良いということは、すなわち高音質である、と言うことです。日本のいわゆる「赤盤」の評判が悪かった事とは対称的です。

もう一つ音質に関わる問題が「またか」と言われてしまうであろうイコライザーカーブです。かねてよりRCAはLP(RCAカーブ)とEPでイコライザーカーブを変えていたのではないか、という説が囁かれていました。EP盤には、RCAが78回転SP末期のビニルプレス盤で用いていたイコライザーカーブをそのまま使っていたという資料もあるようです。これが事実とすると、LPとEPの音質の違いは容易に説明がつくのですが、それ以上に、極めて個性的なイコライジングカーブであるRCAカーブ(LP)に比べ他のイコライザーカーブに比較的近いEP用RCAカーブは、一般的な機器において再生が容易であった、という仮定も成り立ちます(この場合、音質についてはそれぞれ適正なイコライジングを施して評価する必要があるわけですが)。これらについては確実な資料に当たったわけではありませんので、引き続き調べていきたいところです。

2.LP未発売盤の存在
これは最もわかり易い理由です。かつては「CD化されていないからLPを買う」という決め台詞があったものですが、(今やありとあらゆるものがネットやYouTubeに転がっている状態ですから何をか言わんやですが)これと同じような論法がRCA EP盤にも成り立ちます。すなわち、EP盤で発売されていながら、LP(LM番号など)では発売されていなかったものが相当数あったのです。

有名なところでは、エルナ・ベルガーの『歌曲リサイタル』があります。エルナ・ベルガーはRCAにもう1枚『モーツァルト歌曲集』を残しており、こちらはLP(LM番号)でも発売されたのですが、『歌曲リサイタル』は78回転SP盤(DM番号)とEP盤(WDM番号)しか発売されませんでした。

ベルガーと同様のものに、ドイツの大ソプラノ、ロッテ・レーマン最後のスタジオ録音《ソング・リサイタル》やブラームスの《ジプシーの歌》などがある他、プリムローズの『サラサーテアーナ』も希少なEPのみ発売盤です。

ここで少し脱線して、合理的に考えられているRCAのレコード番号について書いてみます。1950年前後のRCAは78回転SP盤、LP盤、EP盤が併売されている状況でした。例えば後述するルービンシュタインのラフマニノフには、EPに〔WDM 1075〕、LPに〔LM 1005〕という番号が振られていたのですが、するとたとえSPの番号を知らなくても、SPの番号は〔DM 1075〕と分かる仕組みになっているのです。この伝統はステレオ期になっても続き、例えばミュンシュの《幻想交響曲》などはステレオ盤が〔LSC 1900〕であれば、モノラル盤は〔LM 1900〕であることが、立ちどころに知れるのです。もちろん幾分かの例外が存在するのは、他の多くの規則と同様のことです。

3.ボーナス曲の存在
これは、前項とも重なる部分でもありますが、EP盤の最後の面に空きが出来たときなど、EP片面に収まる曲が、まるでボーナストラックのように収録されていることがあります。これは78回転SP盤の伝統を引き継いだもので、後述しますがそのほとんどはSP盤と全く同じ面割りで収録されています。面白いことに、LP(LM番号)盤には、これらEP1面分の曲が収録されないことが多いため、さながらEP盤のためのボーナス曲のようになっているのです。また、これらの曲はEPのみでしか聴くことができないものも多く、コレクター心をくすぐらずにはおきません。

身近な例えで申し訳ありませんが、このルービンシュタインのラフマニノフでは、最後の面に少し場違いなショパンの即興曲が収められています。パガニーニ四重奏団のベートーヴェンなどにも、最終面に小粋な楽章が収録されているものがあります。

ここで一寸注意が必要なのは、イトゥルビの『リサイタル』のようにEP盤には収録されていなかったものがLP盤に収録されていることがままあることです。これはこれで、ますますコレクター心をくすぐる話ではありますが。

4.面割りの秘密
これも前に少し触れていますが、RCAのEP盤の建前は78回転SP盤と同じような感覚でマイクログルーブ(LP規格の溝)盤を楽しめることでした。そこで、いくつかの盤を調べてみますと、特に初期のEP盤のほとんどは、同時、あるいはEP以前に発売されていたSP盤の1面と完全に対称となるように収録されていることが分かります。

ここでハイフェッツのチャイコフスキーを俎上にあげてみましょう。この1950年のイギリスHMV録音は、イギリスで4枚組8面のSP〔DB 21228-31〕として発売されました。LP時代になり、イギリスではこの録音を25cm盤LPで発売しましたが、当時提携関係にあったアメリカRCAでは、LPと同時にHMVのSP盤と全く同じ面割の4枚組EP〔WDM 1442〕としても発売しました。

この「SP盤と同じ面割り」がなぜ重要かというと、当時すでにテープ録音を行っていたはずのHMVが、この録音を楽章ごとではなく、面ごとに演奏を止めて録音していたからです。これはテープ録音以前に長い曲をSP録音する際の手法です。

面ごとの録音では、区切りとなる部分で演奏の余韻や残響を残した状態で中断することになり、演奏家によってはリタルダント(テンポを徐々に落とす)を掛けたり、次の1音を弾いてから終えたりもしていました。このような録音をLP化する場合、継ぎ目となる残響や余計な1音などは編集で削られてしまうことになります。つまりLPで聴くこのハイフェッツの演奏は、僅かではあるものの本来の録音から欠落したものを聴いていることになるのです。逆に考えれば、RCAのEP盤では(実に重箱の隅的なレベルではありますが)、この録音を隅なく味わうことができるという寸法です。

なぜテープ録音にも関わらず「面ごと収録」を行ったのかは詳らかではありませんが、後の編集の手間よりも演奏を止めてしまった方が手っ取り早かったのか、あるいはSP時代から録音を続けていた演奏家にとっては、この方法の方が録音し易かったのかもしれません。

蛇足となりますが、このハイフェッツ盤は、フランスでもEP盤セット〔A 95205-6〕として発売されましたが、やんぬるかな、こちらはEP2枚に詰め込んでしまったため、せっかくのEP盤でありながら欠落部分が生じてしまっています。

ハイフェッツの例にとどまらず、パガニーニ四重奏団やルービンシュタインなど多くの演奏がテープ録音にも関わらず面ごと収録をしていたと推測(ほぼ確定)されます。また、クーセヴィツキーやトスカニーニなど、かつてのSP盤の復刻においても演奏を編集で繋げることなく、SP同様の面ごとに聴くことができるのはある意味で有り難いことです。

5.プレーヤーの楽しみ
この考察は、順を追うごとに偏執的となっていきますが、ついには音楽鑑賞を超越してプレーヤーを眺める楽しみにまで至ってしまいました。

RCAはEP盤セットを発売すると同時に、EP盤専用のオートチェンジャー(自動再生)プレーヤー〔Victorola 45-EY〕を発売しました。これがEP盤専用の小じんまりとしていてかわいいなりをしているのですが、太いスピンドルの上部にEP盤を重ねてセットして再生すると、1枚の再生が終わるごとに自動的に次の盤を落としてはまた再生するという、実に良くできたメカニズムを隠し持っています。すべての再生が終わると、盤をまとめて裏返してセットし直せば、残りの面が再び自動で再生されるため、人の手を煩わすのはLP盤と同じく1度だけで済むという訳です。

この動きを眺めていると、音楽すら忘れて見入ってしまうほどに良くできたメカニズムです。しかも初期のモデルには真空管アンプが内蔵されていたため、オーディオマニアが楽しむ余地も十二分に与えられています。

YouTubeなどには実働映像が色々とありますので「百聞は一見にしかず」、ご覧になってみて下さい。ただし、万が一にもこれを購入する羽目になりますと、もはや病膏肓、抜き差しならぬマニア道を邁進することになってしまうことでしょう。

RCA EP盤の世界は、斯くも楽しく、また恐ろしき世界なのです。

RCA Victrola 45-EY-2

レナード・スラトキンの選ぶキワモノジャケット20選

MCS山根氏のTweetを眺めていたら、表題のTweetを紹介されていて、これがかなりヒネリの効いた楽しい企画でしたので、幸いスラトキン氏のTweetは一般公開されていることもあり、20件全てここに列挙させていただくことにしました。

今や巨匠指揮者の一人、レナード・スラトキンは、弦楽四重奏好きであれば一度は耳にしているであろう、1958年エジンバラ音楽祭における伝説的な「ベートーヴェン後期四重奏曲演奏会」を行ったハリウッド四重奏団の第一ヴァイオリンで、指揮者としても活躍した、フェリクス・スラトキンの子息になります(同四重奏団のチェリスト、ヴィクター・アラー女史が母君)。

このワーストジャケット企画の合間にも、『ハリウッド四重奏団の芸術』や『フェリクス・スラトキンの芸術』の紹介を、しかも日本のファン向けにTweetしており、音楽史の連続性を感じることができます。

それにしても二の句がつげないようなジャケットの数々、よくぞ見つけた(架蔵していた?)ものです。スラトキンの一言コメントも秀逸です。対抗して、共産圏キワモノジャケット集でも集めようかと思ってしまいました。


【オーディオ】Pathé 縦振動盤をカートリッジ再生してみる

いわゆるSP盤(スタンダード・プレイ盤、つまり標準再生盤ということですが、実はLP期の45回転17cm盤も初期にはSP盤(Standard Play)とEP盤(Extended Play)の2種があり、紛らわしさからか、諸外国では一般に45rpm盤、78rpm盤と呼ばれています)の中に、少し特殊なものとして、縦振動盤というものがあります。

通常、LP、SPにかかわらず、モノラル盤の音溝は振動が横に記録されており、顕微鏡で見ると川のように蛇行した溝が確認できます。ところが、縦振動盤というものは、振動を上下に記録しているため上から見た溝はほぼ一直線に見えることになります(後述しますがPathé系の盤は少し事情が異なります)。

縦振動盤には、おおまかに分けて2つの流れがあります。一つはエジソン系のもので、もう一つはPathé系です。そもそも縦振動が採用された理由の一つは、最初の量産録音再生装置であったエジソンの蝋管に縦振動が採用されていたことが大きかったのではないかと考えられます。

縦振動盤は溝の幅が一定のため、溝の送り幅を小さくできることや、音質にも利点がある(少なくともエジソンはそう考えていたようです)と言われていました。たしかに、 当時ヴァリアブルピッチ(溝の幅によって送り幅を変える技術。SP末期に使われるようになりました)などという技術はありませんでしたので、横振動の振り幅が大きくなると盤全体の送り幅も大きくしなければなりませんでした(結果として収録時間が短くなる)。しかし、振動の振り幅という点では縦振動盤も、大きな振り幅ともなれば盤の芯に当たってしまう、あるいは溝が浅くなりすぎてしまう可能性があるのですから、大きな利点とは呼べないように思えます。また、音質に関しても横振動円盤記録方式(いわゆる普通のSP盤)を開発したベルリナーは、縦振動方式は機構上歪みが発生しやすいと考えていたようです。

結論から言ってしまえば、ベルリナーの開発した横振動溝の円盤記録方式が録音、再生、さらに量産の容易さなどからスタンダードの地位を得て、1930年頃には縦振動盤は姿を消すことになります。

さて、この縦振動盤を20世紀もはるか遠くなった現代に再生するためには、いくつかの選択肢があります。エジソン、あるいはPathéの蓄音機を使うのが、最も容易かつ真っ当なものですが、他にも、当時から縦振動用サウンドボックスや縦横兼用サウンドボックスというものがあり、様々な蓄音機に取り付けることができました。ただし、Pathé盤に関しては、溝の形が半円状で幅も広い特殊な形であったため、専用のボール針というものを使う必要がありました。

Pathéの縦振動方式はエジソンとは方法、考え方ともにかなり異なっており、単純に同じ縦振動の枠に入れるのが憚られるほどです。Pathé盤の溝を顕微鏡で見てみますと、溝の幅は一定ではなく、左右対称な形のステレオ盤の溝のように見えます。これは、広い溝で針先が深くなり、細い溝では針先が浅くなるというもので、さながら、棒2本を広げたり狭めたりしながら球を落とさずに運ぶゲームのような具合です。

従って、Pathé盤にはそれほど深い溝は刻まれておらず、エジソン盤のような底打ちの心配はあまり無かったのではないかと思われます。しかし好事魔多し、半円形で広くなったり狭くなったりする溝のトレースは大変に繊細なため、重針圧を誇るPathé製蓄音機でも針の下ろし方や盤のソリなどによって簡単に針飛びしてしまうという欠点がありました。

話は少し戻りますが、縦振動盤の再生方法としては、電気再生(カートリッジによる再生)も、針先をSP用としたステレオカートリッジを使うことによって可能となります。といいますのは、ステレオカートリッジは、溝の左右45度に刻まれた波形をトレースしているため、針先が縦に動いた時にも信号を再生しているためです。これは、ステレオカートリッジでモノラル盤(左右のみの音溝)が再生できることと、方向こそ違え同義のことです。

ちょっとした工夫として、縦振動用のカートリッジとする場合、横振動成分を打ち消すように結線することによって、不要な横振動にまつわるノイズを打ち消すことができます(このカートリッジで通常のSP盤を再生すると音はほぼ出ません)。

ステレオカートリッジのSP用針先は、Shureをはじめとして、NagaokaやStanton用など様々なものが入手可能で、エジソン盤は、3ミル針(75ミクロン)で容易に再生することができます。凝った方であれば、SPUにSP用針先を付けることも可能でしょう。

そこで問題となるのがPathé盤です。Pathé盤の電気再生は前述の特徴からも推察されるように、遥か以前から大変な難物とされてきました。太い3ミル針を使ったところで、所詮ボール針とは径が違い過ぎますので、溝の底をさらうような再生しかできず、それ以前にたいていの場合、針先が溝にきちんと接していないために簡単に針先が流れてしまい盤を最後まで再生することすら覚束ないという有様でした。

この問題の解決法としては、ボール針の針先をカートリッジへ移植するというような大掛かりなことしか考えられませんが、実際にそのような暴挙(快挙?)に出たという話は、残念ながら耳にしたことがありません。

例によって前置きが長くなってしまいました。Pathé縦振動盤アーティストの代表と言えば、名ヴァイオリニスト、ジャック・ティボー、それにニノン・ヴァラン女史ということになろうかと思います。我が手元には、ティボーは手放してしまったもののヴァラン女史など10枚ほどのPathé系縦振動盤があります。

これら僅かばかりの縦振動盤を、どうにかして手元のプレーヤーで再生したいというのが長年の願望だったのですが、そんな折も折、世界は広しでStanton用8ミル針というものが売られていることを知ったのでした。Pathéのボール針はおおよそ8ミルと言われていますのでPathé盤再生には最適と思われました。

早速、初期のStantonと共に手配して、RF297に取り付けられるようにEMTのシェルに入れたものが冒頭の写真です(アルミ風シールでそれっぽく仕上げたのはご愛嬌)。普通のシェルであれば、シェルリード線の改造だけでできたものが、EMTのシェルに押し込むために、切った張ったの難工事となってしまいました。

再生した結果は望外のもので、針圧を重めに設定し、針さえ丁寧に音溝に下ろせば、これまでの労苦など何事もなかったかのように最後まで安定して再生でき、またその音も十分すぎるクオリティを得ています(今でこそ安手のカートリッジの筆頭のようなStantonも、50~60年台は放送局用スタンダードとして使われていたのです)。

こうなってくると、もう一度ティボーを入手したい気持ちが湧き上がってきます。欲望というものは困ったもので、断捨離とは程遠い人生を送っている今日この頃です。


【wpメモ】500 Internal Server Errorが出現した

ご存知のように、現在のCLASSICUSのWebサイトはWordPressで作られおり、ショッピングカート機能はwelcartという、標準機能は無料のWordPress用EC(eコマースの略らしい)プラグインを使用しています。

WordPressというのは非常に簡単かつ強力なCMS(Contents Management Systemつまりコンテンツ管理システム。次々と現れる略称の数々、まったくついていけません)で、無数にあるテーマやプラグインなどを選んでいくだけで相当に完成度の高いWebページ(昔はHP、つまりホームページと言ったものですが)を作ることができます。html手打ちをしてWebをコツコツと作っていた世代から見ると隔世の感があります。

さてこのWordPress、テーマやらプラグインを選び、ちょっとしたデザインや遊びをCSS(カスケード・スタイル・シート、要はhtmlの装飾要素のようなものです)をいじくり回して満足しているうちは良いのですが、本格的に動作の原理(つまりは表示する内容やら順番やら)を変更しようとすると、いささか厄介な事になります。

詳しくは他所へ譲るとして、WordPressはPHPという言語で書かれており、このPHPをカスタマイズすることによって、Web上で可能なことはほとんど何でも実現できてしまう、ある意味禁断の果実といえます。

CLASSICUSのWebページも、特にwelcartを独自の仕様で表示させたかったためもあってPHPをカスタマイズしているのですが(ただし、このPHPカスタマイズも、最近のWordPressは子テーマをカスタマイズすることによって、テーマの基幹部分を壊したり、更新によってカスタマイズが消去されるというようなことが防止されるようになっています)、このPHPカスタマイズによってエラーが出てしまうことが少なからずあります。

最も多いエラーは単純な文法エラーです。括弧が対になっていなかったり、関数の綴り間違いなど、ごく簡単かつ見落としがちなこのようなエラーによって、いきなりWebページが表示されなくなってしまうため、初めて出くわした時には慌てふためいてしまいます。また、エラーの種類は千差万別ですから、気がつくときにはすぐに気がつくのですが、単純であればあるほど見つからなかったりするものです。

ようやく本題です。 商品の並べ替え方法を見直そうと、久々にPHPをカスタマイズ(ややこしく表現すれば、function.phpの並べ替えフックの変更)したのですが、WordPressのエディターで更新したところ、突如として真っ白な画面に「500 Internal Server Error」と表示されてしまったのです。

こうなってしまうと、WordPress自体が動作を止めてしまうため、FTPからファイルをアップロードして復旧を行うより他なくなってしまいます。ところが、FTPで変更した部分を元に戻してもWordPressは動作せず、いささか慌ててしまいました。

ひとしきり検索をして、色々な事例を眺めて思案したところで、手始めにfunction.phpを消去してみますと、何事もなかったように復旧してしまいました(function.phpは親テーマにもあるため、子テーマのものが消えても大きな問題とはなりません)。次に、カスタマイズした部分をコメントアウト(/* */ で囲い言語と見なされないコメントとすること)したfunction.phpをアップロードすると、これもまたごく普通に動作します。

これで、エラーはカスタマイズした中にあることが分かりました。しかし、何度見直し、似たような部分と比較しても、エラーらしきものは見つけられず、コメントアウトを外した途端に「Error 500」となってしまいます。

あちらを消しこちらを直し何度試してみても「Error 500」から逃れることが出来ず諦めかけたところで突然閃き、テキストエディターにペーストしたfunction.phpに半角文字検索をかけてみたところ、半角スペースであるはずの部分に謎の空白が挟まっていることが判明しました(キャプチャ写真参照)。そこで、その謎の空白を正しい半角スペースへ変更したものをFTPでアップロードしたところ、あっけなく動作してしまいました。

この謎スペースの文字コードは「00A0」で、これは「ノーブレークスペース」というものらしく、手打ちhtml世代は良くお世話になった「&nbsp;」と同じもののようです。アルファベットや括弧などの半角と全角の間違いはチェックしていたのですが、まさかスペース部分にこのような罠が潜んでいようとは思いもよりませんでした。一体このようなものがいつどこで混入したのか、謎は残ったままですが。

レアケースとは思いますが、構文上問題が無いのにPHPの動作がおかしい場合にはスペースや改行などに怪しい文字コードが潜んでいないかチェックしてみても良いかもしれません。


『Discopaedia of the Russia Pianism』

振り返ってみますとよくよく長いこと「ロシアピアニズム」にのめり込んできたわけですが(そしてこれから先ものめり込み続けることになるのだろうと思いますが)、この辺りで資料を再度まとめておくのも悪くないのではないかと思い立ち、この度『Discopaedia of the Russia Pianism』として出版する運びとなりました。

出版といいましてもAmazonのオンデマンド出版となりますので、ご不便かとは思いますが購入できるのはAmazonのみとなります(店頭に若干数置いております)。

内容は、youngtreepress版『ロシアピアニズム』巻末のディスコグラフィを再編集、大幅増強したものと考えていただいてよいと思います。国外への展開に色気を出して、解説文等は全て英文として、巻末にロシア語、日本語カナを含めた人名索引を付ける形としました。この索引は、分かる範囲ではありますが、生没年、国籍、父称(ロシア語のみ)などを含んだ詳細なものとなっております(とあえてここで書くのは、これに随分と苦労したことへのいかばかりかの反動です)。

情報化社会の破滅的な発展を考えますと、このような書籍が役に立つのもあと少しばかりではないかと思いますが、何某かお役に立てていただければ幸いです。 ご購入は、こちらのページより可能です。


『Discopaedia of the Russia Pianism』ローマ字表記、日本語読みについて

『Discopaedia of the Russia Pianism』におけるロシア名のローマ字表記については書籍内にも書きましたが、スペースの関係で例を載せることができなかったため、ここに代表例をいくつか挙げます。

慣例とは違った綴り例としては、「Alexander → Aleksandr」「Neuhaus → Neigauz」「Afanassiev → Afanasiev」「Schnittke → Shnitke」などがあります。

反対に、当書のローマ字規則からは外れるものの、慣例に従った例としては、「Tchaikovsky ← Chaikovsky」「Rachmaninov ← Rakhmaninov」「Scriabin ← Skriabin」「Mussorgsky ← Musorgsky」「Richter ← Rikhter」などがあります。

 

また、カナの読みについても実際の発音に近づけようという目論見のもと、今までの慣例とは若干異なる表記となっています。ローマ字同様の変換規則に則った表記を基本としていますが、変換テーブル表をまだ作っていませんので下記に概要を示します。

主だったものとしては「di: ディ → ジ」「ti: ティ → チ」が挙げられます。例としては、「ウラディーミル → ウラジーミル」「ユーディナ → ユージナ」「ティモフェイエワ → チモフェーエワ」などのようになります。

また、ロシア文字の「я/ya」は「ヤ」としましたので「Tatyana → タチヤナ」「Mariya → マリヤ」としています。アルメニアの典型的な名前「Khachaturyan」「Nersesyan」などは、ロシア語とはまた違う発音であろうとは思いますが(そもそも原語はロシア文字ではないわけですが)「ハチャトゥリヤン」「ネルセシヤン」等としました。

発音に関しては難しい部分もあり、「Va」を「ヴァ」と読むか「ワ」と読むかはロシア人によってもまちまちなため判断に迷うところです。本書では濁らない「ワ」を基本とし、かなり気まぐれ、かつ恣意的に「ヴァ」を用いました(例えば、ウォスクレセンスキーやゴロヴァノヴでは今一つ様になりませんので)。

また、ロシア語における「e」(および「ë」)の発音もカナへ変換するには難物です。実際の発音を聞いてみますと「フェドセーィエフ」「ニカラーィエワ」「ワリィエーリー」に近いような発音に聞こえるのですが、これをそのままカナとすると冗長となってしまうため、煩雑さを避ける意味もあり慣例通り「フェドセーエフ」「ニコラーエワ」「ワレリー」等としました。心の中で「ィ」とアクセントを足していただければと思います。

もう一つ、アクセント無しの「о」も難しい問題です。この文字はロシアでは「ア」と発音するため、本来であれば先程も挙げたような「ニカラーエワ(ニコラーエワ)」や「ガラワーノフ(ゴロワノフ)」「サフラニツキー(ソフロニツキー)」となりますし、「オレグ」というファーストネームも、ロシア人は明らかに「アレグ」と発音しています。しかし、これを原語に近づけてしまい、結果として書籍としての使い勝手が悪くなってしまっても仕様がありませんので、慣例に倣って「オ」としました。

バルト三国や中央アジア諸国ともなると、ロシア語とは全く違った発音となるのは想像に難くありません。これらの発音については、ロシア語綴りを基本としましたが、当たらずとも遠からずという程度になっているのではないかと危惧しています。

 

いずれにしましても、この手の問題においてある程度の誤謬は避けられないところです。「外国語を完璧にカナ表記することは不可能である」ことを念頭におおらかな心でもってご容赦いただければ幸いです。