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【本の街】No. 5 ジャケットの効用?(IV)

これまで数回にわたって趣くままにジャケットの紹介をさせていただきましたが、ひとまずこの辺りで一区切りつけたいと思います。

とは言え、この種の気楽な書きなぐり文章に仰々しい結論をこじつけるのはいささか無粋な話です。最初からそのことを見越して「ジャケットの効用」にクエスチョンを付けておいたのだ、などと言ってしまっては、話が出来すぎでしょうか。

──昨年の夏、バスティーユの裏通りのレコード店で、ジャケットのイラストが気に入り長年探していた、コラ・ヴォケールのPathéデビュー盤を見つけ、それを店頭に飾っていたときのこと。それに目を留めたある人に、そのイラストがペイネのものであること、またフルトヴェングラーにもペイネのイラストのものがあることなどを教えていただきました。

ようやく探し出したフルトヴェングラーの《田園交響曲》フランス盤のイラストは、フルトヴェングラーのイメージとはおよそかけ離れたものでしたが「田園の交響楽」をそのまま絵にしたような素晴らしいイラストでした。

ペイネについては「恋人たち」の作者である、という程度の認識しか持っていなかった私でしたが、この一件によるペイネの再発見こそ、最近の私にとってのジャケットの効用であったようです。

個々のデザインの好き嫌いはともかくとして、かつてのLPレコードの黎明、発展期には、何かしらエスプリを感じさせるジャケットが存在したことは誰しもが認めるところでしょう。

大げさかもしれませんが、かつて「LPレコード文化」とでもいうべきものが存在し、ジャケットデザインはその
重要な構成要素であったのだと思います。

おそらく、往時のレコード製作に携わった人たちの「レコード」の概念では、ジャケットは決してレコードの保護袋などでは無かったのでしょう。

しかし、それはSP時代を引き継いだLPレコードという商品が、大量生産、大量消費のコマーシャリズムの渦の中へと巻き込まれていくまでの、ほんの束の間の出来事であったように思えてなりません。

〔本の街 2003年3月 掲載,ジャケットギャラリーより図版引用〕

【Music Bird】音楽は情報たりうるのか

職業柄日々考えてしまうのは、レコードとCDについてです。今更レコードはCDよりも音が良い、などと青臭いことを言うつもりは毛頭なく、実際私もどちらの音が良いのか、ということについてはまるで見当がつかないのです。あえてCDについて言えることといえば、CD=デジタル化は、あらゆる意味で人類が音楽を「情報」化した象徴であるということです。

「情報(informatio)」は、人が感じ取り、それによって何かを判断するあらゆる事象を指すもので、本来は音楽もその一部であるはすですが、昨今言うところの「情報(data)」は人の行動とは関わりなく、ある事象を数値として表す機能を指すことが多いようです。

情報は、はるか昔から(金銭的)価値を伴うものでしたが、多くの音楽が情報化された現在、音楽は1分いくら、あるいは何メガバイトでいくら、というように、実にロジカルに価値が決められていきます。

つい先日もビートルズのリマスター盤が大々的に発売されていましたが、これも少し意地悪く見れば、CDの情報をいくらか操作することによって、新たな価値を創出したようにも見えます。

この音楽の情報化は、人類が録音を発明した日から少しづつ歩を進め始めたといえるでしょう。記録によって音楽、すなわち情報の共有化が始まったのです。しかしそれでもアナログ録音は、音楽──音の振動を「変形」させて記録したに過ぎす、dataとしての情報としては不十分でした。音楽の(現在の意味での)情報化は、音楽を分解、すなわち「変質」させ、data化=デジタル化したことによって、高度に完成した姿になったと言ってよいでしょう。

しかし、情報化は、音楽が本来持っていたであろう不可解な部分、神秘的な部分すらも数値によって照らし出してしまいました。否、「照らし出した」ではなく、むしろ「神秘を無くしてしまった」と言う方がふさわしいかもしれません。音楽に備わっていたはずの神秘性は数値へと変質され、「得体の知れない何物か」から「操作の対象」へと変わってしまったのです。

しかし、「音楽は音楽である」ごとく、変質されてもやはりそれは音楽であり続けています──あるいは、あり続けなくてはならないのです。情報化された音楽の背景に、果して音楽の不可解や神秘は存在し続けているのでしょうか。あるいは、不可解や神秘を失ってしまった音楽は音楽たりうるのでしょうか。

〔Music Bird プログラムガイド 2009年10月 掲載〕
写真:情報化へ抵抗し続けた作曲家、ジョンケージのDial盤。

【Music Bird】情報について考える二、三のことなど

現代は情報化社会といわれるように、情報技術(IT)は、専門的な研究分野だけではなく、わたしたちの生活全般にとって欠かせないものとなっています。

一時「インターネットは世界を変える」などと言われ、私はそれを鼻で笑っていたものですが、たしかに世界は変わりました。何か調べものをするときに、百科全書、蔵書(これこそが知識の象徴であった)、あるいは専門家に頼らずとも、インターネットによって世界に張り巡らされた情報網を駆使すれば、一昔前までは考えられなかったほど多くのことを知ることができるようになりました。

いわば知識の多くはコンピューターのキーボードをくだけで手に入るような時代になったといってもよいでしょう。IT化以前であれば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタは何曲あり、それぞれの作曲年代は何年で、それらの調は……というような事を調べるのに、音楽辞典、曲名辞典などを頼らなければならなかったものが、今やいとも簡単に手に入ってしまう時代となってしまったのです。

以前は──否、現在でも、多くの情報(知識)を持っている人は、音楽をより理解しているというような風潮がありました。たしかに、ベートーヴェンがソナタを何曲書き、その作曲年代を知るということは、ベートーヴェンの音楽を理解する上で少なからず役には立つでしょう。しかしIT化によって、一個人が何十回、何百回生まれ変わっても咀嚼しきれないほどの膨大な情報が入手できる状況となった今、これらの情報によって音楽がより理解されているのかというと、さほど以前と変わりない、あるいは昔の方がより音楽を理解、感受していたのではないかとすら思えてしまうのです。

人は音楽を聴けば何かを感じ、考えます。それは、その音楽に関して多くの情報を持っている人も、そうでない人も、内容に違いはあるかもしれませんが何かを感受しているはすです。しかし、辞書やインターネット、解説書などで知ることの出来る情報をどれほど多く手に入れ、整理整頓し、その精度をどれほど高めたとしても、音楽を聴き、考え、感受することの代用とはなり得ないのではないでしょうか──それらは巧みに代用できるよう見せかけ、人もまたそれらを代用する利益を享受したがるのですが。

かつてLPを超え、無用のものとするために開発されたCDが、逆にLPの真価をあぶり出したように、IT化もまた、高度な情報であっても人の経験や感受に代わることはできないということを、あらためてあぶり出していはしないでしょうか。

──知識は芸術にあらざればなり──  クリュシッポス

 

〔Music Bird プログラムガイド 2009年12月 掲載〕
写真:無駄?な「情報」の多い、サティの《官僚的ソナチネ》

【Music Bird】感性の異邦人

先日とあるきっかけから、どこで読んだものだったか、音楽好きの論客同士が激論の果てに「私は君の理解するように音楽を聴くことはできないが、君も私の理解するように音楽を聴くことはできない」という捨て台詞を吐いたという話を思い出しました。この言葉はまさしく名言で、演奏するにせよ聴くにせよ、音楽体験というものは個人がそれぞれ他者とは違う感性で体験するものであって、その感性が他者と完全に一致するということは、まずありえないことであるといってよいでしょう。

このようなことを思い出したのは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの辻井伸行さんがヴァン・クライバーン・コンクールに優勝したというニュースを聞いたときのことです。

盲目のピアニストが優勝したと聞いてまず感じたのは、盲目でありながらよくぞまあこのような難関を突破したものだ、ということです。盲目であるということは楽譜が直接読めないという点で決定的に不利であって、いかに天与の才があったとしても、おそらく普通の演奏家には考えられないような努力が必要であったことは想像に難くありません。

これは実際に辻井伸行さんと室内楽を競演した方から聞いたのですが、コンクールの室内楽の課題曲であったシューマンのピアノ五重奏曲をほんの数週間で完璧に記憶してしまった、と舌を巻いていました。

しかし、ひねくれ者の私にとって、若干の驚きを別とすれば、このようなことはプロの演奏家であればたとえハンデがあったとしても当たり前のことであって然るべきだと思うのです。

そこで次に頭に思い浮かんできたのが、冒頭の話です。盲目の世界というものは、単に目が見えなくて生活が不便であるとかピアノを弾くのが難しい、というような単純なものではなく、全ての生活、全ての人生を目以外の情報によって行い、それらの情報によって感性や感覚、感情が育まれ、思考するという点において、およそ我々健常者には想像しえない世界であるように思うのです。盲目の人が体験するあらゆる感覚や感情、思考などは、おそらく我々には一生経験しえないものであり、しかし盲目の人もまた、我々が感じるものを一生経験しえないのであろうと、ニュースを聞きながら私はそのように思ったのです。

きっと辻井さんはその想像しえない世界というものをたとえ水の一滴のようにわずかなものではあってもピアノを通して我々に表現し、審査員もまたその感性に魅せられ、応えたのではないでしょうか。

思えば、ヴァンクライバーンその人も──グレン・グールドという先例があったにせよ──鉄のカーテンに閉ざされていたソ連に単身乗り込み、おそらくはソ連の音楽人たちが一度も味わったことのない感性によって、審査員を虜にしたのではなかったでしょうか。このようなことからも、辻井さんがヴァン・クライバーン・コンクールで優勝したというのは象徴的な出来事であったように思います。

願わくば、「盲目なのにすごい」というような言葉で我々の感覚を押し付けられることなく、(この文章のような)無粋な注釈を加えられるようなこともなく、演奏家として、芸術家として大成されることを祈るばかりです──芸術の道は厳しく険しいものである、というのもまた事実ですから。

〔Music Bird プログラムガイド 2009年8月 掲載〕
写真:1972年モスクワ再訪時のMelodiya録音。

【本の街】について

神保町のタウン紙『本の街』へ、開店間もない2002年10月より2005年5月まで断続的に寄稿させていただいた文章です。ご好意で原稿を旧WebpageにPDF形式で転載させていただいておりました。

Webpage改装にともないまして改めて文章として掲載することにしました。「Music Bird」同様、改めて読み返してみますと実に拙い文章目を覆わんばかりのため、適宜隠蔽、改竄等しております。ご了承下さい。

なお掲載画像は、新たに追加いたしました。


【Music Bird】について

縁あって、2006年より2010年3月まで衛星デジタルラジオ放送局「MUSIC BIRD」のプログラムガイドへ寄稿させていただいた文章です。「MUSIC BIRD」様のご好意で原稿を旧WebpageにPDF形式で転載させていただいておりました。

Webpage改装にともないまして改めて文章として掲載することにしました。今見直してみますと、誠に未熟な文章の数々汗顔の至りであり、Blogに収めるにあたっては若干の加筆修正等を行いました。

なお掲載画像は、原稿に掲載されたモノクロ画像をそのまま使用しております。


【本の街】No. 11 偽名盤の楽しみ(II)──10年落ちの偽名、ロマノ・ルバート

前回から随分間が空いてしまいましたが、もう一つ前代未聞の偽名盤の例をご紹介しましょう。

LP期のオランダを代表するレーベル、Philipsにロマノ・ルバートというイタリア風の名前を持ったヴァイオリニストによる小品集が2枚あります。しかし、このルバートなる人物、どの演奏家事典に当たってみても、このような演奏家の名前を見つけることはできません。

それならば、きっとその辺をブラついている音大生を引っ張ってきて録音し、適当な名前で発売したのかと勘繰りたくもなるのですが、サロン風の味わいのある実に甘美なその演奏は、とても学生には弾けるようなレベルのものではありません。それにまた、Philipsはメジャーレーベルの一角を占める立派なレーベルであり、およそ偽名を使ってレコードを発売するような会社ではないのです。

普通であれば、誰かは分からないけれどもなかなか良いレコードがある、で終わってしまうようなこの話ですが、後々とんでもない形での謎解きが待っていました。

Philips盤が発売されて数年後、今度は、オランダHMVから再びルバートのレコードが発売されました。しかも、今度のレコード・ジャケットにはカイゼル髭をたくわえた謎の演奏家、ルバートの写真が大写しに印刷されていたのです。なるほど、ルバートはこのような顔だったのか、と納得しながら、経歴でも書かれていないものかとジャケットの裏面を見ると、そこには髭をたくわえたルバートの横顔に向かい合って、頭の禿げ上がった人物の横顔が写された写真が目に入ります。

しかも、よくよく見てみると、その頭の禿げ上がった人物は、オランダの名ヴァイオリニスト、ナップ・デ・クラインではありませんか。さらに仔細にその写真を見ていくと、程なくしてルバートとおぼしきカイゼル髭の人物は、実はカツラと付け髭で変装をしたクラインであることに気付くのです。

世に偽名盤は数あれど、カツラに付け髭までつけて変装している偽名盤はこのルバートくらいのものでしょう。

それにしても、なぜクラインはこのような偽名を使ったのでしょう。単なる悪ふざけなのか、二重人格なのか。あるいは、峻厳そうな風貌から察するに、同僚や弟子の手前、自分の名前であのような甘美な演奏を発表するわけにはいかなかったのかもしれません。

いずれにしても、謎掛けから何年も後に、しかも、よくよく気をつけて見ないと見落としてしまうような方法で落ちをつけるというのは実に諧謔に溢れた方法ではないでしょうか。

〔本の街 2005年5月 掲載〕

【本の街】No. 10 偽名盤の楽しみ(I)──あるいはウラニアのエロイカについて

世の中は数多くの偽名に溢れています。主著を偽名で発表したキルケゴールや、数多くの作品を発表!? している映画監督アラン・スミシー氏などは有名ですが、クラシック・レコードにも少なからず偽名盤と呼ばれるものがあります。

一例を挙げますと、フリッツ・シュライバーという指揮者が、実はかのフルトヴェングラーであったとか無かったとか、イヴォンヌ・ユルトヴァンというヴァイオリニストが有名な閨秀、ローラ・ボベスコであったとか、あるいは、フリッツ・マラショフスキーというヴァイオリニストが、ベルリン・フィルの名コンサートマスター、ゲルハルト・タシュナーであった、というようなものがあります。

上記の例はいずれもLP 初期アメリカでの話で、戦後、ベルリンに駐留していたアメリカ軍の一将兵が、ラジオ放送用テープの複写をアメリカへ持ち帰り、その複写テープを何らかの形で入手したマイナーレーベルがこれらのテープを元にして多くの偽名レコードを製作したのです。

同じようにして、これらの音源を入手していたUraniaという会社は、フルトヴェングラーの録音を、正直にも「フルトヴェングラー指揮」と表記したために、ご本人から訴訟を起こされるという栄誉に浴しています。これが、有名な「ウラニアのエロイカ」です。

ただしUrania 社の名誉のために付け加えておきますと、Uraniaレーベルのほとんどの音源は、正規の手続きを経て入手されたもののようですし、「ウラニアのエロイカ」に象徴されるように、ほとんど全てのレコードは偽名を使わずに発売されました。

──話は逸れますが、ソビエトもアメリカ同様、本国へ莫大な放送用音源を持ち帰り、それらの音源から作られた一連のフルトヴェングラーのレコードは、「メロディアのフルトヴェングラー」として珍重されています。

皮肉なことですが、これらの半ば略奪と言って良いような行為によって、今や文化遺産にも比すべき「メロディアのフルトヴェングラー」や「ウラニアのエロイカ」が残されたのは歴史の皮肉と言わざるを得ません。──

これらの偽名は、レコード会社による、いわば演奏家をないがしろにした偽名工作なわけですが、専属契約を結んでいる演奏家やオーケストラが、他のレーベルへ録音したいがために、あるいは他の理由によって別の名前を名乗るという場合もあります。

プロ・ムジカ・オーケストラや、プロムナード・オーケストラなどという名前は、大抵の場合、実態のあるオーケストラの仮の名前であることが多いようです。これらはいわば演奏家公認の偽名と言えるでしょう。

〔本の街 2004年8月 掲載〕

【本の街】No. 9 「いい音」とは?(III)

「いい音」を再現するためには、物理的な音響特性などはどうでもよい、ということではなく、物理特性は良いに越したことはないけれども、物理特性ばかりを追求して目的であるべき音楽の再生、もっと言えば音楽的感動の再現、がなおざりにされているのでは本末転倒ではないでしょうか。

さまざまなレコードを聴いていると(LPに限らず、78回転SP盤でさえも)、物理特性は劣っているものの音楽的な感動が強く伝わってくるレコードというものがあります。逆に、吃驚するような鮮烈な音が再現されているにも関わらず、音楽的内容の空虚なものも残念ながら数多く存在します。

現在の技術では演奏された内容を完全に再現することは不可能ですから、もしその演奏体験を再現するとすれば、再現可能な範囲の中で記録するより他ありません。

ここにレコーディングプロデューサーやレコーディングエンジニアの存在意義があると言えるでしょう。作家が、文章という限られた表現方法の内で情景や心象を描いて見せるようにして、レコード製作者は、録音媒体の限界の内に自分の体験や感動を封じ込めるのです。

したがって、演奏家はもちろんのこと、レコードの製作者にも技術や知識だけではなく、音楽に対する感性や情熱、そしてなによりも演奏に対する共感が必要です。誰が共感しなかった演奏のレコードに、音楽的感動を記録することが出来るでしょうか。

ところが、良い音楽を再現したいという欲求から追求されていたはずの物理特性の良い音というものが、いつの間にか「良い物理特性で再現されたものが良い音(音楽)である」というように主客転倒されてしまったのです。

あるいは、良い音という計測のできない領域に対する直感への自信の無さが、数値で優劣が判断できるものとして「物理特性の良さ=良い音」という図式を生み出したのかもしれません。

私には、物理特性の向上に反比例するようにして、レコード文化の、良い音を求める精神とでもいったものが矮小化していったように思えてなりません。──「録音の古さから音が十全ではない、したがって推薦には値しない」というようなレコード評はもはや定型と化しています。

ともあれ、本質的な意味での「いい音」というものは、数値や物理特性の優劣で決められるものではなく、それぞれの聴き手の心の中にのみ見出せるものではないかと思います。

作曲家の音楽に感動した演奏家、その演奏家の演奏に感動した聴衆(レコード製作者)、その記録に感動する我々レコードの聴き手へと、「いい音──良い音楽」を通して伝わってくるものは共感や感動、体験であり、音の波形ではないのです。

〔本の街 2004年4月 掲載〕

【本の街】No. 8 「いい音」とは?(II)

前回、「いい音」の基準として「原音≠マスターテープの音」というものが提唱されたものの、その定義は些か曖昧であるという趣旨のことを書きました。

では、なぜ「原音」の定義が曖昧になってしまうのかと考えますと、それは音や音楽の良し悪しを最終的に判断するのが、結局は人であるからではないでしょうか。

人の主観によって聴かれた音は、あくまでもその人の感じた音であり、絶対的な基準とはなり得ません。今横に居る人と自分が見ている空の青い色が同じ、あるいは違う青であることの証明は誰にもできないのと同じように、同じ場所で同じ(はずの)音を聴いていても、すぐ横で聴いている人が自分と同じ音を聴いているという証明はできないのです。

また、たとえ「私」が同じ環境で同じ音楽を聴いたとしても、今日の「私」が聴く音と明日の「私」が聴く音は違って聴こえるでしょうし、10年前の「私」が聴いた音とも違うことでしょう。

結局、人という不確定的な要素を対象とした芸術なり美術というものに絶対的なものは存在せず、鑑賞者という媒体を通して相対的にのみ評価されるものなのではないでしょうか。

もし、これら芸術や美術が絶対的といわれるものに僅かでも近づく可能性があるとすれば、それは長い歴史によって磨き上げられ、淘汰、選別が繰り返された末になることでしょう。

このように考えますと、原音であるとかマスターテープの音といったものは、確かに「いい音」のある面は写しとっているのかもしれませんが、「いい音」全体の物差しとするには些か役不足である感は否めません。

しかし、役不足という言葉は、あらゆる「いい音」の表現に対しても当てはまることですから、「いい音」の全体像を探し当てるためには「いい音」の断片を積み重ねて、全体像を構築していく他ないようにも思えるのです。

それはさておき、私の考える「いい音」は、「音楽的な体験、感動の伝わる音」という何とも観念的なものです。再生音というものは、再生装置や環境によって面白いように変化しますが、ある程度の水準で再生されれば、その録音の底流を流れている「体験や感動」は感じ取ることが出来るように思うのです。

レコードやCDなどの再生媒体は、演奏が行われたその場に居なかった人々へ、能うかぎりその内容を伝えるための手段ですから、たとえ音響特性の優れた音でその演奏を録音/再生できたとしても、その場の体験、感動を多少なりとも伝えることができなければ、その録音/再生は成功したとは言い難いように思えるのです。

〔本の街 2003年10月 掲載〕