【Music Bird】情報について考える二、三のことなど

現代は情報化社会といわれるように、情報技術(IT)は、専門的な研究分野だけではなく、わたしたちの生活全般にとって欠かせないものとなっています。

一時「インターネットは世界を変える」などと言われ、私はそれを鼻で笑っていたものですが、たしかに世界は変わりました。何か調べものをするときに、百科全書、蔵書(これこそが知識の象徴であった)、あるいは専門家に頼らずとも、インターネットによって世界に張り巡らされた情報網を駆使すれば、一昔前までは考えられなかったほど多くのことを知ることができるようになりました。

いわば知識の多くはコンピューターのキーボードをくだけで手に入るような時代になったといってもよいでしょう。IT化以前であれば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタは何曲あり、それぞれの作曲年代は何年で、それらの調は……というような事を調べるのに、音楽辞典、曲名辞典などを頼らなければならなかったものが、今やいとも簡単に手に入ってしまう時代となってしまったのです。

以前は──否、現在でも、多くの情報(知識)を持っている人は、音楽をより理解しているというような風潮がありました。たしかに、ベートーヴェンがソナタを何曲書き、その作曲年代を知るということは、ベートーヴェンの音楽を理解する上で少なからず役には立つでしょう。しかしIT化によって、一個人が何十回、何百回生まれ変わっても咀嚼しきれないほどの膨大な情報が入手できる状況となった今、これらの情報によって音楽がより理解されているのかというと、さほど以前と変わりない、あるいは昔の方がより音楽を理解、感受していたのではないかとすら思えてしまうのです。

人は音楽を聴けば何かを感じ、考えます。それは、その音楽に関して多くの情報を持っている人も、そうでない人も、内容に違いはあるかもしれませんが何かを感受しているはすです。しかし、辞書やインターネット、解説書などで知ることの出来る情報をどれほど多く手に入れ、整理整頓し、その精度をどれほど高めたとしても、音楽を聴き、考え、感受することの代用とはなり得ないのではないでしょうか──それらは巧みに代用できるよう見せかけ、人もまたそれらを代用する利益を享受したがるのですが。

かつてLPを超え、無用のものとするために開発されたCDが、逆にLPの真価をあぶり出したように、IT化もまた、高度な情報であっても人の経験や感受に代わることはできないということを、あらためてあぶり出していはしないでしょうか。

──知識は芸術にあらざればなり──  クリュシッポス

〔Music Bird プログラムガイド 2009年12月 掲載〕
写真:無駄?な「情報」の多い、サティの《官僚的ソナチネ》