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ジャン・ロンドーの《ゴルトベルク変奏曲》──楽譜をめくる意味

過日、ジャン・ロンドーのチェンバロによる《ゴルトベルク変奏曲》のコンサートを聴いてきました。

ジャン・ロンドーは、この文章を書くにあたって調べてみたところ、鬼才とも呼ばれるフランスの若手チェンバロ奏者でこれが初来日だったとのことです。

私はゴルトベルク変奏曲を殊のほか愛好してはいるものの、このコンサートは行けなくなった友人からチケットを譲り受け、物見遊山で出掛けたことを告白しておきます。その友人も、ロンドーのチラシが余りにおかしかったのでチケットを購入したようですが。

ともあれ、当日私は文化会館の席に収まり、演奏会は始まりました。リパッティやバックハウスを思い出させるようなアルペジオを爪弾いたのち、弾きはじめられた《ゴルトベルク変奏曲》は拍子抜けするほどオーソドックスで、むしろ奇抜なチラシや「鬼才」という言葉が少し煽りすぎなのではと感じられるほどです。

それにしても、強弱のつかないチェンバロという楽器による演奏は、グールドをはじめとしたピアノによる名演を聴いた耳にとっては残念ながら余りにもモノクロームであって、その欠点を補うためにフレージングを強調したりテンポを細かく動かしてはいるのですが、これがまた弦楽器の古楽器奏法独特のアクセントを彷彿させてしまいます。古楽器演奏のあの年々どぎつくなるフレージングやアクセントは、音量による表現不足を補うものであったのかと妙に得心してしまいます。そういえば、《冬の旅》をフォルテピアノで伴奏した演奏会でも、テンポをことさら揺らす伴奏に閉口したものでした。

本来デュナーミクやアゴーギク(私は、この目を引く外来語があまり好きになれません。日本人なのですから「抑揚」と「緩急」で良いではないかと思ってしまいます)というものは、表現や歌いまわしの中において分離不能な混淆物として現れるはずであるのに、昨今の古楽器奏法は、まるで抑揚がつけられないので代わりに緩急をつけているようにすら思われてしまいます。18世紀に演奏された場や空間を想像するに、それほどの濃淡ある表現が必要であったとも思われないのですが。

一つの頂点ともいえる第25変奏では、始める前に大きく間を取り、ゆったりとしたテンポで繰り返しも全て行い、この変奏への思い入れは大いに感じられましたが、表現としての深みがその思い入れほどあったでしょうか。さらに言えば、この変奏をこれほど大切に扱っておきながら、ダ・カーポ主題へと戻る直前の最後の高揚、クオドリベットを繰り返しも行わずに弾き流したのことには少なからず失望を覚えました。私はバッハがこの変奏を最後に配したことには少なからぬ意味があると信じているのですが。とはいえ、第14変奏や16変奏などではチェンバロの鋭い音色を活かした表現で面白さを感じもしましたが、全体としては余り惹きつけるようなものは感じられませんでした。

もう一つ目を引いたのが曲の間です。ロンドーは多くの曲間に一呼吸を置いていましたし、勿体をつけたような楽譜のめくりかたをして長い間を取ったりもしていました。曲を間断なく続けたいのであれば、暗譜するなり譜めくりをつけるなりできるわけですから、何かしら彼なりの考えがあってのことだとは思いますが、音楽の流れが遮られるような気がして私にはあまりしっくりと来ませんでした。あるいはこれは新手のアゴーギクなのでしょうか。

楽譜をめくるという行為にはもちろん意味があります。タルガムのTED講演によれば、リヒャルト・シュトラウスが自作の指揮で淡々と指揮棒を上下させながら譜面をめくっているのは、もちろん自分の曲を忘れてしまったのではなく、「楽譜によって演奏するのだ」という暗喩を楽団員へと伝えているのだそうです。一体ロンドーは誰に向かって楽譜をめくっていたのでしょうか。

ダ・カーポ主題が静かに終わりをつげましたが、誰一人として拍手をすることなく、ロンドーも微動だにしません。一体この静けさは何なのでしょう。決して満足のいかない演奏ではなかったとしても、そこまで深く心に染み入るような演奏であっただろうか、と自問してしまいます。30秒、あるいは1分くらいたったでしょうか、熱烈な拍手とブラボーが湧き起こりました。正直を言うと、私は高揚したこの場の雰囲気と自分との落差にすっかり冷水を浴びせられた格好となり、いささかなりに楽しんでいた気分も雲散霧消してしまいました。拍手の鳴り止まぬ中、席を立って早々に文化会館を後にしました。