Music Bird一覧

【Music Bird】音楽は情報たりうるのか

職業柄日々考えてしまうのは、レコードとCDについてです。今更レコードはCDよりも音が良い、などと青臭いことを言うつもりは毛頭なく、実際私もどちらの音が良いのか、ということについてはまるで見当がつかないのです。あえてCDについて言えることといえば、CD=デジタル化は、あらゆる意味で人類が音楽を「情報」化した象徴であるということです。

「情報(informatio)」は、人が感じ取り、それによって何かを判断するあらゆる事象を指すもので、本来は音楽もその一部であるはすですが、昨今言うところの「情報(data)」は人の行動とは関わりなく、ある事象を数値として表す機能を指すことが多いようです。

情報は、はるか昔から(金銭的)価値を伴うものでしたが、多くの音楽が情報化された現在、音楽は1分いくら、あるいは何メガバイトでいくら、というように、実にロジカルに価値が決められていきます。

つい先日もビートルズのリマスター盤が大々的に発売されていましたが、これも少し意地悪く見れば、CDの情報をいくらか操作することによって、新たな価値を創出したようにも見えます。

この音楽の情報化は、人類が録音を発明した日から少しづつ歩を進め始めたといえるでしょう。記録によって音楽、すなわち情報の共有化が始まったのです。しかしそれでもアナログ録音は、音楽──音の振動を「変形」させて記録したに過ぎす、dataとしての情報としては不十分でした。音楽の(現在の意味での)情報化は、音楽を分解、すなわち「変質」させ、data化=デジタル化したことによって、高度に完成した姿になったと言ってよいでしょう。

しかし、情報化は、音楽が本来持っていたであろう不可解な部分、神秘的な部分すらも数値によって照らし出してしまいました。否、「照らし出した」ではなく、むしろ「神秘を無くしてしまった」と言う方がふさわしいかもしれません。音楽に備わっていたはずの神秘性は数値へと変質され、「得体の知れない何物か」から「操作の対象」へと変わってしまったのです。

しかし、「音楽は音楽である」ごとく、変質されてもやはりそれは音楽であり続けています──あるいは、あり続けなくてはならないのです。情報化された音楽の背景に、果して音楽の不可解や神秘は存在し続けているのでしょうか。あるいは、不可解や神秘を失ってしまった音楽は音楽たりうるのでしょうか。

〔Music Bird プログラムガイド 2009年10月 掲載〕
写真:情報化へ抵抗し続けた作曲家、ジョンケージのDial盤。

【Music Bird】情報について考える二、三のことなど

現代は情報化社会といわれるように、情報技術(IT)は、専門的な研究分野だけではなく、わたしたちの生活全般にとって欠かせないものとなっています。

一時「インターネットは世界を変える」などと言われ、私はそれを鼻で笑っていたものですが、たしかに世界は変わりました。何か調べものをするときに、百科全書、蔵書(これこそが知識の象徴であった)、あるいは専門家に頼らずとも、インターネットによって世界に張り巡らされた情報網を駆使すれば、一昔前までは考えられなかったほど多くのことを知ることができるようになりました。

いわば知識の多くはコンピューターのキーボードをくだけで手に入るような時代になったといってもよいでしょう。IT化以前であれば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタは何曲あり、それぞれの作曲年代は何年で、それらの調は……というような事を調べるのに、音楽辞典、曲名辞典などを頼らなければならなかったものが、今やいとも簡単に手に入ってしまう時代となってしまったのです。

以前は──否、現在でも、多くの情報(知識)を持っている人は、音楽をより理解しているというような風潮がありました。たしかに、ベートーヴェンがソナタを何曲書き、その作曲年代を知るということは、ベートーヴェンの音楽を理解する上で少なからず役には立つでしょう。しかしIT化によって、一個人が何十回、何百回生まれ変わっても咀嚼しきれないほどの膨大な情報が入手できる状況となった今、これらの情報によって音楽がより理解されているのかというと、さほど以前と変わりない、あるいは昔の方がより音楽を理解、感受していたのではないかとすら思えてしまうのです。

人は音楽を聴けば何かを感じ、考えます。それは、その音楽に関して多くの情報を持っている人も、そうでない人も、内容に違いはあるかもしれませんが何かを感受しているはすです。しかし、辞書やインターネット、解説書などで知ることの出来る情報をどれほど多く手に入れ、整理整頓し、その精度をどれほど高めたとしても、音楽を聴き、考え、感受することの代用とはなり得ないのではないでしょうか──それらは巧みに代用できるよう見せかけ、人もまたそれらを代用する利益を享受したがるのですが。

かつてLPを超え、無用のものとするために開発されたCDが、逆にLPの真価をあぶり出したように、IT化もまた、高度な情報であっても人の経験や感受に代わることはできないということを、あらためてあぶり出していはしないでしょうか。

──知識は芸術にあらざればなり──  クリュシッポス

 

〔Music Bird プログラムガイド 2009年12月 掲載〕
写真:無駄?な「情報」の多い、サティの《官僚的ソナチネ》

【Music Bird】感性の異邦人

先日とあるきっかけから、どこで読んだものだったか、音楽好きの論客同士が激論の果てに「私は君の理解するように音楽を聴くことはできないが、君も私の理解するように音楽を聴くことはできない」という捨て台詞を吐いたという話を思い出しました。この言葉はまさしく名言で、演奏するにせよ聴くにせよ、音楽体験というものは個人がそれぞれ他者とは違う感性で体験するものであって、その感性が他者と完全に一致するということは、まずありえないことであるといってよいでしょう。

このようなことを思い出したのは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの辻井伸行さんがヴァン・クライバーン・コンクールに優勝したというニュースを聞いたときのことです。

盲目のピアニストが優勝したと聞いてまず感じたのは、盲目でありながらよくぞまあこのような難関を突破したものだ、ということです。盲目であるということは楽譜が直接読めないという点で決定的に不利であって、いかに天与の才があったとしても、おそらく普通の演奏家には考えられないような努力が必要であったことは想像に難くありません。

これは実際に辻井伸行さんと室内楽を競演した方から聞いたのですが、コンクールの室内楽の課題曲であったシューマンのピアノ五重奏曲をほんの数週間で完璧に記憶してしまった、と舌を巻いていました。

しかし、ひねくれ者の私にとって、若干の驚きを別とすれば、このようなことはプロの演奏家であればたとえハンデがあったとしても当たり前のことであって然るべきだと思うのです。

そこで次に頭に思い浮かんできたのが、冒頭の話です。盲目の世界というものは、単に目が見えなくて生活が不便であるとかピアノを弾くのが難しい、というような単純なものではなく、全ての生活、全ての人生を目以外の情報によって行い、それらの情報によって感性や感覚、感情が育まれ、思考するという点において、およそ我々健常者には想像しえない世界であるように思うのです。盲目の人が体験するあらゆる感覚や感情、思考などは、おそらく我々には一生経験しえないものであり、しかし盲目の人もまた、我々が感じるものを一生経験しえないのであろうと、ニュースを聞きながら私はそのように思ったのです。

きっと辻井さんはその想像しえない世界というものをたとえ水の一滴のようにわずかなものではあってもピアノを通して我々に表現し、審査員もまたその感性に魅せられ、応えたのではないでしょうか。

思えば、ヴァンクライバーンその人も──グレン・グールドという先例があったにせよ──鉄のカーテンに閉ざされていたソ連に単身乗り込み、おそらくはソ連の音楽人たちが一度も味わったことのない感性によって、審査員を虜にしたのではなかったでしょうか。このようなことからも、辻井さんがヴァン・クライバーン・コンクールで優勝したというのは象徴的な出来事であったように思います。

願わくば、「盲目なのにすごい」というような言葉で我々の感覚を押し付けられることなく、(この文章のような)無粋な注釈を加えられるようなこともなく、演奏家として、芸術家として大成されることを祈るばかりです──芸術の道は厳しく険しいものである、というのもまた事実ですから。

〔Music Bird プログラムガイド 2009年8月 掲載〕
写真:1972年モスクワ再訪時のMelodiya録音。

【Music Bird】について

縁あって、2006年より2010年3月まで衛星デジタルラジオ放送局「MUSIC BIRD」のプログラムガイドへ寄稿させていただいた文章です。「MUSIC BIRD」様のご好意で原稿を旧WebpageにPDF形式で転載させていただいておりました。

Webpage改装にともないまして改めて文章として掲載することにしました。今見直してみますと、誠に未熟な文章の数々汗顔の至りであり、Blogに収めるにあたっては若干の加筆修正等を行いました。

なお掲載画像は、原稿に掲載されたモノクロ画像をそのまま使用しております。


【Music Bird】神保町と文化と音楽と

わたしの店のある神保町は古くから本の街として知られています。神保町の周辺には大学や教育機関が多かったことから、明治中頃にはすでに古書店街としての素地ができていたようです。その後、本の街として発展の一途を辿っていた神保町も、大学の郊外移転やバブル経済による荒波、活字離れなどの影響から、書
店の数を徐々に減らしてきました。

ところが、2000年を前後してジャンルを特化したり、展示に工夫を凝らした新しい形の書店が少しづつ増え、レコード店も専門店と呼ばれる店舗が神保町に次々と開店しました。便乗するようにして、私が店を開いたのもこの頃のことです。

そんなこんなで密かな活況を呈していた神保町ですが、ここのところまた新たな風が吹いてきています。

それというのは、ここ数年、神保町にジャズ喫茶が次々と出店されているのです。ジャズ喫茶といえば、かつて神保町にはジャズ喫茶世代の方なら誰もが知っている「」という名店がありました(ジャズ喫茶世代でもなく、余り良いジャズの聴き手でない私でさえ何度か足を運んだことがあるほどです)。しかし、神保町の衰退に歩を合わせるかのようにして「響」は閉店し、神保町のジャズの火は消えたかに見えました。十数年を経た今、わずか数年の間に再びジャズ喫茶が5店にまで増えたというのは、何か気まぐれな偶然なのか、それとも「響」の蒔いた種が今になって花開いたということなのでしょうか。

隣町の御茶ノ水には楽器屋街もあり、今や神保町は音楽の街にもなりつつあるようです。しかし、私にとって神保町は今も昔も本の街であり、なにより「文化」のある街であってほしいと願っています。

文化は単純な経済活動だけでは成り立ちませんし、古いものを壊して新しいものばかりを作っていても生まれてきません。そうかといって、古いものを珍重して新たな価値観を否定していても、それも文化とは呼べないでしょう。古いもの、新しいもの、どちらとも言えないようなもの、それらの中で人々が生活し、経済活動を行い、これらが交じり合い、相互に影響しあっていることそのものが文化であり、写本時代の古書からどぎつい原色が踊る最新の雑誌まで、玉石混交の本の並ぶ神保町こそ、このような文化が根付くには恰好の地と言えるのではないでしょうか。そのような中に彩りの一つとして音楽がある、というのが私の願っている文化ある街なのです。

ところで、神保町という町名の由来は、今の神保町交差点近くに、神保伯耆守の広大な屋敷があったことからきたのだそうですが、神保という言葉については、古く中国では「神の依る所を神保となす」と言い、日本でも神社の領有地のことを指したのだそうです。そこから東西文化の錯綜をいとわず誇大妄想的解釈をほどこすと、神保町は音楽、芸術の神「ミューズ」の依る所と考えてはいささか想像が過ぎるでしょうか。

そういえば、神保町から錦華通りを挟んで向かいにある猿楽町の田来は、世阿弥を祖とする猿楽師(能楽師)観世太夫と観世一座の人々の屋敷があったからであったとか。こんなところにも神保町文化の源流が流れているのかもしれません。

〔Music Bird プログラムガイド 2009年12月 掲載〕

【Music Bird】私的海賊盤考

レコードという媒体によって音が記録できるようになったときから、海賊盤というものが出回ることは、ある種の必然であったといえます。しかし、法律が余りにも複雑であったり、一度ならず入手してしまった経験があるためか、私としては避けるようにしている話題でもあります。

ーロに海賊盤といっても、正規の音源をコピーしたもの、演奏会を隠し録りしたもの、FM放送などを音源としたものから、複雑な著作権によって、結局どちらだか分からないグレーゾーンのものまで種々様々です。ただ、これらに共通して言えることは、少なくともこれらの音源の権利者(主には作曲家と演奏家)の権利を無視し、侵害しているということです。

コンピュータの発達によって、現在では全く音の劣化していないデジタルコピーを作ることが可能となり、実際巷には、海賊盤と思われるコピーCDが驚くほど多く出回っています。法治国家に籍を置く以上、これらの著作権を侵害した行為は厳に慎まれるべきであり、そのような行為に対して取締りや啓蒙活動が行われるべきであるのは言うまでもありません。

しかし、芸術作品と呼ばれるものと、このような(若干利権を感じさせる)法律による規制というものが、今ひとつ馴染まないように感じてしまうのもまた事実です。

バッハによるヴィヴァルディの編曲、モーツァルトによるバッハの編曲、ストラヴィンスキーによるペルゴレージの模倣、あるいはゴッホによる北斎の模写、アンディ•ウォーホルのキャンベル・スープやマリリン・モンローなど、今であれば著作権侵害ととられかねないことが、芸術の上では繰り返し行われています。

ところで、レコードコレクションの世界では時として面白い現象が起こります。それは、希少なLPの音源がCDなどによって復刻され、容易に聴けるようになると、それらによって演奏の真価を知った人々が、何倍、何十倍も高価なオリジナルのLPを探し求めるというものです。

この現象を逆説的に捉え、手元に置いておきたいと思わすにはいられない質の高いCDを制作すれば、そのコピー品あるいは海賊盤の価値は著しく損なわれ、逆に海賊盤によって演奏を知った人々が、質の高い正規盤を求めるのではないか、と考えるのはいささか楽天的に過ぎるでしょうか。

いずれにせよ、こと芸術に関しては、より良いものをつくる姿勢こそが何よりも重要なことであり、真に芸術的なものの前では、模造品はかけらほどの力すら持たないものである、と私は信じているのです。

〔Music Bird プログラムガイド 2008年10月 掲載〕
写真:2人の大作曲家による著作権侵害!?作品

【Music Bird】サンクト・ペテルブルクの幻影と2人の音楽家

 プーシキンが『青銅の騎士』に詠い、ゴーコリがネフスキー大通りを讃え、ドストエフスキーがその虚構を見抜いたピョートル大帝の夢の都、サンクト・ペテルブルクは、およそ300年前に突如として作られた人工の都でした。

 ロシア帝国の首都となったペテルブルクには宮廷文化が花開き、プーシキン、ドストエフスキーをはじめとする多くの文人、チャイコフスキーをはじめとして、リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと続く多くの音楽的才能を輩出しました。
しかし、20世紀に入るとペテルブルクは多くの災厄──まるで、プーシキンが描いたネヴァ河の氾濫のように──を蒙ることになります。第1次世界大戦によるペトログラードヘの改名とそれに続く革命。モスクワヘの再遷都。レニングラードへの再びの改名と第2次世界大戦におけるドイツ軍との1年以上におよぶ市街戦など。
 これらの災厄によって、一時は隆盛を誇ったペテルブルクの音楽文化も次第に力を失っていきます。よく知られたピアニスト、ソフロニツキー、ユーディナ、それに作曲家でもあったショスタコーヴィチなどは、ペテルブルクで教育を受けながらも、モスクワで活躍した音楽家でした。

 このような中、レニングラード(ペテルブルク)には2人の大きな音楽的才能が40年余りの間をあけて生まれることになります。

 1人は、50余年に亘ってレニングラード・フィルの常任指揮者を務めたエフゲニー・ムラヴィンスキーです。ムラヴィンスキーは亡くなるまで常任指揮者の地位に留まり、このオーケストラをロシア随一、いやむしろ世界有数のオーケストラヘと育て上げました。
 もう1人は、モスクワの俊英を尻目に、若干16歳でチャイコフスキー・コンクールを制したピアニスト、グリゴリー・ソコロフです。モスクワの音楽筋、審査員、それに有力な出場者の誰もが──おそらく本人ですら──このレニングラードからやってきた若者が、難物の協奏曲2曲(チャイコフスキーの第1番と、いくつかの技巧的なものから選んだもう1曲──この時はおそらくサン=サーンスの第2番)を易々と弾いて優勝をさらうとは思っていなかったことでしょう。

 この年の全く離れた2人の天才──このような才能を前にして他に浮かぶ言葉がないのです──に共通する点は、生まれた街、レニングラードヘの強固な結び付きです。

 ムラヴィンスキーもソコロフもレニングラードを離れることを好まず、ムラヴィンスキーは国外はもとより、おそらく魅力的な提案があったであろうモスクワにすらほとんど関心を抱かず、終生レニングラードに暮らしました。

 一方のソコロフはさらに先鋭的で、モスクワを訪れたのは、チャイコフスキー・コンクールの時ただ一度で、その後は、現在までを含めて(現在はドイツで暮らしているようです)ただの一度もモスクワに足を踏み入れていないのです。

 およそ上からの命令が絶大であったソ連時代に、これほど徹底してモスクワを避けた──あるいはレニングラードを離れなかった理由とは一体何だったのでしょうか。

 私はそこに、他とはかけ離れた2人の個性と同時に、大地に根ざした伝統都市モスクワを嫌い、西洋を目指して造られた人工都市サンクトペテルブルクの、美しさと幻影に満ちた矛盾と同質の何かを感じてしまうのです。

おお、強力な運命の支配者よ!
このようにお前は深淵の眞際に、
高いところに、その鐵の馬勒をもって
ロシヤを後足で立たしたのではなかったか?
──プーシキン『青銅の騎土』より

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〔Music Bird プログラムガイド 2008年3月 掲載〕
写真:ソコロフ畢生の名演、《ゴルドベルク変奏曲》の演奏会録音

【Music Bird】音楽と録音技術

 レコード録音の歴史は、エジソンの発明した蝋管にはじまり、ベルリナーによって実用化された円盤(ディスク)によって世に普及したのは周知の通りです。音楽をディスクという媒体に封じ込めようとした歴史は、ある意味でノイズとの戦いの歴史でもありました。初期に作られたSP盤(78回転ディスク)のノイズは、CDと比べると甚だしいもので、LPが発明されると、そのノイズの少なさからSPはあっという間に姿を消してしまうことになります。そのLPもまた、ノイズや取り扱いのデリケートさに問題があり、ついにはCDが開発されることになります。ここで人類は、初めて録音媒体のノイズという問題から開放されることになります。

 音楽録音の歴史がノイズとの戦いであったのであれば、ここにその目的は達成され、あとは音楽を録音し続けるだけで、新たな録音媒体の開発は不要のはすでした。ところが、CDが開発されてからも新たな機器の開発は依然として続いていて、DVDオーディオやSACDといった規格が次々と開発されています。これは一つには資本主義の歪んだ欲望があるのは間違いのないところでしょう。

 しかし本当の問題は別のところにあるようにも思われます。その顕著な表れが、LPやSPへの回帰です。人類は80年余りも音楽の邪魔をするノイズを消すために努力を重ねてきたにも関わらす、いざそのノイズが取り除かれてみると、音楽の本質はノイズによって邪魔をされてはいなかったのではないかという疑念を持ったのです。

 CDはまた──LPにもその予兆があったとはいえ──高忠実度(High Fidelity)の録音が、音楽の本質へと近づく道ではなかったのではないかという疑念も突き付けます。

 アドルノは1934年、すでにこのように書いています。

 ──複製されたものに具象的な忠実度を求める傾向が現れると、人はそうした技術を改善しようと試み、そこから具体性という成果を期待するようになる。ところがその
具体性がまやかしに過ぎないものであることを当の技術自身が暴き出してしまう。──

 アドルノの盟友ベンヤミンはまた、次のように書いています。

 ──複製技術の急速な浸透とそれと連動した芸術の大衆化は、芸術作品から「アウラ」という唯一性の輝きを失わせてしまった──

 たしかに、LPやSPにはCDにはない何かがあるように感じられる瞬間があります。しかし、我々がこのことに気づくのは、アドルノがまやかしとよぶCDによってのことなのです。

 それにまた、LPやSPはすでに役目を終え、歴史の中に埋もれ始めた媒体です。人類が再び音楽の本質を少しでも汲めるような媒体を開発できることが信じられればよいのですが。

〔Music Bird プログラムガイド 2007年11月 掲載〕

【Music Bird】藝術を疑え

私は余程のことがなければ国内の演奏家を聴くことは稀であり、演奏会であれ、録音であれ、海外の演奏家ばかりを聴いています。西洋かぶれの舶来主義者とのそしりは免れないところですが、作品の生み出された文化圏、あるいはその影響の残る文化圏の演奏家が醸し出す雰囲気、色合いを、全く異なる文化圏の演奏家が再現するのは至難である、という考えは未だ変わることはありません。

そこで、そもそも日本におけるクラシック音楽とは、芸術とは何であるのかと思い、調べてみると、その起源は意外にもはっきりとしていて明治時代へと入った時がその始まりだったのです。「Art」という言葉の訳語として「藝術」という言葉が造られ、それと共に「Art」という概念もまた日本に入ってきたのです。その時まで日本に「藝術に近似、あるいは照応する概念」はあったのでしょうが「Artという概念としての藝術」は存在しなかったのです。「藝術」に限らず、当時先進的だった西洋の概念は日本を瞬く間にして飲み込み、これを境として、日本における多くの学問、思考方法が、これら西洋の概念をもとに組み立てられていったのです。

結果として、例えば我々は「藝術」以前からわが国に存在した浮世絵を「藝術」と呼び、その歴史を西洋的思考である歴史学を用いて、研究、分類しているのです。極端に考えれば、明治以降の日本人は、日本に居ながらにして西洋の考え方を基として日本を見ているのです。

もちろん日本にはいまだに独自の文化、感覚、風習などは残っているのでしょうが、残念ながらそれらを見る視点の方がすでに日本独自のものではなくなっているのです。それも「西洋」の視点ではなく「西洋的」視点で、です。そこにわが国の「藝術」受容の問題点がありはしないでしょうか。

そこでクラシック音楽です。言うまでもなくクラシック音楽は西洋で生み出された西洋音楽です。これを日本人の「西洋的」視点で眺めたとき、あるいは西洋人が「西洋」の視点で眺めたとき、果たして日本人の演奏は正しく「西洋」であることは可能なのでしょうか。個人的な意見を言わせていただければ、それは否です。なぜなら「西洋的」な基準で築かれるものは、それをどこまで極めても「極上の西洋的」であり「西洋」ではないからです。

では日本人にはクラシック音楽、あるいは「藝術」を極める余地は無いのかというと、それはある意味では──すでに述べている通り──不可能であり、ある意味では可能なのではないかと思うのです。

まず一つ実現可能かどうかはともかくとして、ラディカルに完全なる西洋を目指すという方法が可能性としてはあります。しかしもう少し現実的な可能性の一つとして、日本独自の芸術(に照応する)概念を作り上げ(あるいは復古して)、その基準を軸として西洋の「藝術」を捉えるという方法があるのではないでしょうか。

いわば「日本から視た日本の概念による西洋」を構築するのです。多くを西洋文化に侵食されてきた日本でこのようなことを考えること自体がすでにパラドックスであり、労多くして益少なしであるかもしれませんが、日本が西洋文化を本当の意味で受容するためには、「藝術」を超えることが不可欠なのではないだろうかと考えつつ筆を置きたいと思います。

わが無能ぶりを隠すために深い議論を避け、長きにわたって好き勝手を書かせていただきましたが、今回をもって一応の区切りとさせていただくこととなりました。末筆ながらこ担当いただいた各氏にお礼申し上げます。

〔Music Bird プログラムガイド 2010年3月 掲載〕

【Music Bird】聴き比べの楽しみ──芸術の質

クラシック音楽鑑賞の醍醐昧の一つとして、全く同一の曲を異なった演奏で聴き比べることができる点があります。ベートーヴェンのピアノ・ソナタや交響曲など、いったいどれだけの録音が残されているのか、今となってはその数を数えるだけでも一仕事となってしまいます。

クラシックは多くの場合基となる楽譜があり、その楽譜から外れて演奏するということはほとんどありません(もちろん例外的に演奏家による編曲、楽譜が原典版であるか否か、など細かい相違はあるのですが)。ところがクラシック以外の音楽となると、楽譜そのものが無かったり、たとえ楽譜があったとしても全く同じように演奏するということは稀なことであり、クラシックの聴き比べのようなことはほとんど考えられないのではないでしょうか。

敢えて他の芸術に似たような例を探すと、能や歌舞伎、あるいは正教のイコン画のように一定の型が決まっているようなものが考えられるでしょうか。これらはいずれも「古典」と呼ばれるものである点で不思議な一致がみられます。

同じ楽譜でありながら、テンポの違い、音の強弱、ペダルの踏み方、ポルタメント、スラーの解釈など、演奏家によってさまざまな違いがあり、それらの細かな違いから「この演奏はロマン的な解釈である」「この演奏こそが正統な解釈である」などと侃々誇々できるのは、クラシック愛好家の一つの特権であるのかもしれません。しかもさまざまな演奏解釈が正統を競った挙句に、(昔の作曲家であれば)誰も聴いたことのない作曲家自身による最も正統的な演奏、というものまで仮想的には存在するのですから、議論はいきおい紛糾することにもなるでしょう。

ところで、聴き比べの話を聞いていていつも気にかかるのが演奏に上下を付けたがることです。以前にも書いたように、演奏すること、その演奏を聴くということは、ほぽ完全に主観的な行為ですから、これに順位を付け、さらにはその順位を他人と共有しようという企ては非常に危険かつ報われないことであるように思われます。音を間違えたとか、録音が良くないとか、およそ芸術とは関係ない部分にわずかな客観性が残されているのかもしれませんが。

同じように、演奏の好き嫌いと、その演奏の質そのものの混同も少なからず見受けることがあります。「この演奏のこの部分が嫌いであるから、この演奏は良くない演奏である」という意見は、音楽の重要な部分を見落としています。嫌いな演奏であっても質──この場合私が考えているのは芸術的な面における質──の高いものは存在するでしょう。また、およそ芸術的にはまだ未成熟である近所の子供の演奏が好きということも当然に起こりえることでしょう。

演奏を聴く上で好き嫌いをはっきりとするということ主観的になることは重要なことですが、同時に芸術的な質──これ自体も主観的であるが故に問題はより一層困難になるのですが──という別の尺度も考慮されなければならないと思うのです。

とはいえ繰り返しになってしまいますが、このような聴き比べができるのはクラシック愛好家ならではの特権であることは間違いのないことです。せっかくの権利なのですから大いに楽しみ、謳歌し、時には難しい議論などを戦わせてみたいものです。

〔Music Bird プログラムガイド 2010年2月 掲載〕
写真:あれこれと悩むのも聴き比べの楽しみ。