【Music Bird】藝術を疑え

私は余程のことがなければ国内の演奏家を聴くことは稀であり、演奏会であれ、録音であれ、海外の演奏家ばかりを聴いています。西洋かぶれの舶来主義者とのそしりは免れないところですが、作品の生み出された文化圏、あるいはその影響の残る文化圏の演奏家が醸し出す雰囲気、色合いを、全く異なる文化圏の演奏家が再現するのは至難である、という考えは未だ変わることはありません。

そこで、そもそも日本におけるクラシック音楽とは、芸術とは何であるのかと思い、調べてみると、その起源は意外にもはっきりとしていて明治時代へと入った時がその始まりだったのです。「Art」という言葉の訳語として「藝術」という言葉が造られ、それと共に「Art」という概念もまた日本に入ってきたのです。その時まで日本に「藝術に近似、あるいは照応する概念」はあったのでしょうが「Artという概念としての藝術」は存在しなかったのです。「藝術」に限らず、当時先進的だった西洋の概念は日本を瞬く間にして飲み込み、これを境として、日本における多くの学問、思考方法が、これら西洋の概念をもとに組み立てられていったのです。

結果として、例えば我々は「藝術」以前からわが国に存在した浮世絵を「藝術」と呼び、その歴史を西洋的思考である歴史学を用いて、研究、分類しているのです。極端に考えれば、明治以降の日本人は、日本に居ながらにして西洋の考え方を基として日本を見ているのです。

もちろん日本にはいまだに独自の文化、感覚、風習などは残っているのでしょうが、残念ながらそれらを見る視点の方がすでに日本独自のものではなくなっているのです。それも「西洋」の視点ではなく「西洋的」視点で、です。そこにわが国の「藝術」受容の問題点がありはしないでしょうか。

そこでクラシック音楽です。言うまでもなくクラシック音楽は西洋で生み出された西洋音楽です。これを日本人の「西洋的」視点で眺めたとき、あるいは西洋人が「西洋」の視点で眺めたとき、果たして日本人の演奏は正しく「西洋」であることは可能なのでしょうか。個人的な意見を言わせていただければ、それは否です。なぜなら「西洋的」な基準で築かれるものは、それをどこまで極めても「極上の西洋的」であり「西洋」ではないからです。

では日本人にはクラシック音楽、あるいは「藝術」を極める余地は無いのかというと、それはある意味では──すでに述べている通り──不可能であり、ある意味では可能なのではないかと思うのです。

まず一つ実現可能かどうかはともかくとして、ラディカルに完全なる西洋を目指すという方法が可能性としてはあります。しかしもう少し現実的な可能性の一つとして、日本独自の芸術(に照応する)概念を作り上げ(あるいは復古して)、その基準を軸として西洋の「藝術」を捉えるという方法があるのではないでしょうか。

いわば「日本から視た日本の概念による西洋」を構築するのです。多くを西洋文化に侵食されてきた日本でこのようなことを考えること自体がすでにパラドックスであり、労多くして益少なしであるかもしれませんが、日本が西洋文化を本当の意味で受容するためには、「藝術」を超えることが不可欠なのではないだろうかと考えつつ筆を置きたいと思います。

わが無能ぶりを隠すために深い議論を避け、長きにわたって好き勝手を書かせていただきましたが、今回をもって一応の区切りとさせていただくこととなりました。末筆ながらこ担当いただいた各氏にお礼申し上げます。

〔Music Bird プログラムガイド 2010年3月 掲載〕