過去のNEWS写真一覧

シュターツカペレ・ドレスデン [News写真2004年12月]

日本ではドレスデン国立歌劇場と呼ばれるシュターツカペレ・ドレスデンは、ヨーロッパでも最も古い歴史を誇る管弦楽団の一つで、その壮麗な歌劇場はゼンパー・オパーとも呼ばれます。

2003年春、ベルリンから列車に乗り、初めてドレスデンを訪れました。貧乏旅行のため2等自由席へ乗ったのですが、この時向かいに座っていたドイツ人とおぼしき3人が実に個性的だったので今でも記憶に残っています。一人は強面で屈強な軍人のようなスキンヘッドのおじさん。一人は撫でつけた髪がきれいにM字に剃りこまれているように見えるやさ男。もう一人はやや着古したGジャンを着て頭髪が少し後退し、背が高く痩せたお兄さんで、「特攻野郎Aチーム」のモンキーを思わせる雰囲気です。このお兄さんがどさっと置いた大きなザックには、なぜか着ぐるみのライオンらしき頭がぶら下がっているのですが、誰もそれには気をとめず、ヨーロッパ人らしくしかつめらしい表情をしています。

別々に乗り合わせたこの3人は時々会話を交わしていたのですが、私たちは、もともと旧東ドイツ圏であることもあって、英語が通じるかどうか自信が無かったので(もちろん英語でも自信は無いのですが)、ライオンの頭やら、スキンヘッドおじさんの職業やら興味津々だったにもかかわらず話しかけることができませんでした。今にして思えば残念なことをしたものです。

ドレスデンに着いた時、新駅か旧駅か分からず外をきょろきょろ眺めていたら、スキンヘッドおじさんがドイツ語で多分「旧駅は一つ先だよ」というような事を教えてくれたのが、唯一交わした会話でした。

ドレスデンは旧市街しか歩いたことがありませんが、第2次世界大戦で壊滅的な打撃を受けたにも関わらず大変に美しい街で、その最たるものが、写真のシュターツカペレ・ドレスデンとツヴィンガー宮殿でしょう。この時、灰燼と化した聖母教会は、欠片を一つ一つ組み合わせながらの再建途上で、バッハのカンタータ演奏で有名な聖十字架教会は内部が煤けて黒くなっていたのが印象的でした。

しかし、まだ少し冷えこむ夜のエルベ川沿いを歩いてたどり着いた、闇夜に光り輝くゼンパー・オパーはひときわ印象に残ったのでした。


聖トマス教会(ライプツィヒ) [News写真2005年1月]

ドレスデンから電車で1時間ほどのところに、ゲーテが学び、バッハの活躍した町、ライプツィヒがあります。ライプツィヒに向かうべく夕方にドレスデン駅に着いたまさにその時、ライプツィヒ方面行き電車が出発するところで、チケットを買う間もなく飛び乗りました。

ライプツィヒは、見本市が行われるなど旧東ドイツの都市の中では比較的大きな町なのですが、旧市街は意外に小ぢんまりしており、有名なゲヴァントハウスは旧市街の少し外側にあります(外側にあって良かったというデザインですが…)

その旧市街の入り組んだ道の中ほどに、かつてバッハもカントールをつとめたという聖トマス教会があります。教会の前の小さな広場には、バッハの銅像があり、いやが上にもバッハとクラシック音楽の歴史を感じさせます。

ルター派の教会らしく外観は質素な造りですが、内部の白い天井には装飾とともに網目のように赤いアーチが入り組み、荘厳というよりは意外なほど明るい雰囲気を漂わせています。この時は、(ギュンター・ラミンのジャケット写真に写っている)合唱団の並ぶ2階のオルガン付近が工事中で幕に覆われていたのが、トマス教会合唱団の愛好家としては少し残念でした。

曇り空だったこともあって教会の内部はほの暗かったのですが、写真に写っている内陣付近は、ステンドグラス越しに差し込むやわらかな光と照明に美しく照らしだされていました。

一通り教会を見て回ったあとは、バッハもシューマンもゲーテも通ったというヨーロッパ最古のカフェ、「カフェ・バウム」で一服するのが正しい観光客といえましょう。


シニョーリ広場(ヴィツェンツァ) [News写真2005年3月]

イタリアに限らずラテンの国々(主にフランスとイタリア)は、真面目一方な我々日本人には考えられないほどの長い夏休み、すなわちヴァカンスを取ります。極端な例だと7月の初めから8月の終わり頃までヴァカンスを取るお店もあります。

とはいえ、ラテンの国々も「このままではいかん」と思ったのか、ヴァカンスは短く、食事の時間も短く、食事のカロリーは低くなる傾向にあるようです。

このときは、スイスから北イタリアを回ったのですが、時まさに8月というわけで、イタリアはどこの町もかしこの町も水を打ったような静けさ、「地球最後の男」になったかと思うほどです。

しかも、このときのヨーロッパには、余りエアコンが普及していないフランスで老人の死者がたくさん出たというとんでもない熱波が襲来しているところで、スイスからコモ湖を越えて夜9時頃にミラノに到着したとき、見かけた温度計に38度という数字が煌々と輝いていたのを、今でもよく覚えています。

ヴィツェンツァの中心、シニョーリ広場もお昼だというのにまさに人っ子一人いない状態、むなしく太陽だけが気温をぐんぐんと上げ続けていたのでした。

それにしてもイタリアの古い町の美しさといったら……日本人として彼我の美意識の違いを痛感してしまいます。


ガレリア(ミラノ) [News写真2005年4月]

前回に引き続き、気温38度のイタリアです。

ミラノはローマに次ぐ第2の都市だけあって、ヴァカンスシーズンかつ猛暑であったにも関わらず、夕闇迫るガレリア周辺には、観光する人、買い物を楽しむ人、それに夕涼みをする人などがそぞろ歩いていました。

ガレリアはドーム型のガラス天井を中心として道が十字に伸びた巨大アーケードで、十字の道はミラノの象徴、ドゥオモやオペラの殿堂、スカラ座などへとつながっています。その壮大な外観はミラノの中心と呼ぶにふさわしい威容と美観を誇っています。

ドーム天井の直下には牛の描かれたタイルがあり、この上で一回転すると何やら幸運が舞い込むらしいのですが、それがどのような幸運なのかは実はミラノっ子も知らないのだそうです。もちろん正しい観光客である私も一回転。

ガレリアには、楽譜で有名なRicordiをはじめとして多くの高級ブランドが店舗を構えています。これは同じようなガレリアのあるナポリの下町風情とはずいぶんと異なっています。2つのガレリアを比べてみると、色々な意味でイタリアの北と南の違いを反映しているようにも思えます。

ここ、ミラノのガレリアにはベンヤミンの言う「幻灯(ファンタスマゴリ)の映しだす資本主義の幻想空間」が正しく残されているのかもしれません。


ヴァンドーム広場(パリ) [News写真2005年4月]

花の都、芸術の都、パリです。

パリへ行く前は、パリ経験者(誰あろう、そのうちの一人はわたしの姉ですが)から、犬のフンが路上に放置されていて臭いが…とか、思ったよりも綺麗じゃない、などと聞かされ、つまりそれほどのところでもないのかな、と漠然と思っていたのですが、初めて行ってみて、その町並みの美しさや、ラテン的いいかげんさも含めた人々の活気と洗練に、なかば圧倒されたのでした。(予告どおり、犬の糞はそこかしこにありました…が)まさに百聞は一見にしかず、なのです。

パリの魅力はそれだけにとどまらず、古いものを大切にするという国民性からか、古書や中古レコード店の多い町でもあるのです(それでもずいぶん数が減ってきてしまいましたが)。市のはずれには、常設のフリーマーケットが2ヶ所あり、新品にしか興味がない、という人々を除けば、1日見て回っても飽きないようなところです。

わたしとは縁遠いのですが、一時、パリといえばブランド品をしこたま仕入れにいくところでもあったようです。ヴァンドーム広場は、その歴史的経緯はともかくとして、現在は高級ブランド店と高級ホテルの立ち並ぶ、パリの別の一面を代表する場所と言えましょう。

ヴァンドーム広場はまた、その一角にかのショパンが住んでいたことでも知られています。日々レコード探しと美術館やら名所を巡っていたわたしも、やはり一度は拝観しておかなければならないところ、というわけです。

夕暮れを予感させる斜めの陽射し、ヨーロッパらしい高い空、散り散りに空を覆う雲、見事なまでの統一感をみせる建物など、思わず「ああ美しい」という言葉が口をついて出てしまうような一瞬です。

 


ヴェネツィアのゴンドラ [News写真2005年5月]

なにやら世界名所巡りになりつつありますが、ヴェネチアです。

ヴェネツィアはクラシック音楽にゆかりの深いところで、ガブリエリやヴィヴァルディをはじめとして、ガルッピ、さらに現代音楽で知られるヴォルフ=フェラーリ、マリピエロとその弟子であるノーノなどもヴェネツィアの作曲家として知られています。

他にも、モーツァルトはイタリア楽旅時にヴェネツィアに滞在し、その時ガルッピからの影響を受けたと言われ、メンデスルゾーンはヴェネツィアの舟歌から有名な無言歌を残しています。また面白いところでは、あのストラヴィンスキーが墓地の島といわれるサン・ミケーレ島へ埋葬されているのですが、それについてのこぼれ話は後へととっておきましょう。

アドリア海の真珠、ヴェネツィアはまた、多くの文豪の愛する町でもありました。ボッカッチョ、シェイクスピアは言うにおよばず、バイロン、リルケ、プルースト、ヘミングウェイ、エズラ・パウンド等々…。

中でもトーマス・マンは、美と破滅の象徴としてのヴェネツィアを、美しく、しかし真実の持つ残酷さをもって描いています。当時のマンは、ヴェネツィアが徐々に沈みつつある(つまり滅びへの過程を歩んでいる)ということを知ってはいなかったと思うのですが、権威、名誉が美の前に滅んでいく場としてヴェネツィアを選んだというのは、決して偶然ではなかったように思います。

1929年、グスタフ・フォン・アッシェンバッハの亡くなったこの地で息を引き取った人物がいます。バレエ・リュス、つまりロシア・バレエ団を率いて時代の寵児となったセルゲイ・ディアギレフです。後に大指揮者となる美少年、イーゴリ・マルケヴィッチを連れて立ち寄ったヴェネツィアで客死し、この地に埋葬されたのでした。

稀代の山師ディアギレフは、美の象徴である少年と、すでに名声を手に入れた者の死、という最後の虚構をこの地で完結させた、とも言えるでしょう。そして、ディアギレフ生涯の盟友ストラヴィンスキーは、没後この地への埋葬を望んだのでした。ディアギレフにとって、これ以上の追悼の辞はなかったでしょう。

この町は博物館には適していない。なぜならそれ自体が、一つの芸術作品、しかも人類が作り出した最高傑作だからだ。

ディアギレフ、ストラヴィンスキーと同じロシアの亡命詩人、ヨシフ・ブロツキーはヴェネツィアをこのように歌ったのでした。


ヴィンタートゥール [News写真2005年6月]

ヴィンタートゥール、ウインターツール、ウィンタートゥーア、正直、わたしは実際にどのように読むのか良く分かりません。

いきなりの脱線で申し訳ありませんが、地名、人名の読み方で、ずいぶん昔に「アイヴズ、アイヴス論争」と私が勝手に名づけた、ため息しか出てこないような論争があったのを思い出しました。

ざっくり要約してしまうと、アメリカの作曲家アイヴスを、アイヴスと読むかアイヴズと読むのかで紛糾したのです。この手の議論は、クラシック評論などでも散見され、ヴァグナーかワーグナーか、ドヴォルザークがドゥヴォジャークか、ドビュッシーかダビュシかなど。そこそこ名の知れた評論家先生がこのようなことを得意げに書いているのを見るとがっかりしてしまいます。

ただ個人的には気になっている読み方もあります。ドイツ系フランス人のソプラノ、Irene Joachimです。彼女の父はドイツ人ですから、まっとうに読めばヨアヒムだと思うのですが、仏文出の人はジョアシムと読みますし、ジョアキム、ヨアキムと読む人もいます。さらにはジョアシャンと読む例まであって、何がなにやらです。

わたし自身は、日本人が欧米人の名前を正しく発音するのは難しい上に、それをカナで正確に表記するというのは、そもそもがナンセンスであると考えています。これを逆説的に(弁証法的にと書いたほうがスノブらしいでしょうか)考えると、例えば鈴木さんが外国の人に、スズーキーさんと呼ばれても、シュズキさんと呼ばれても、大して気にはならないし、どちらであっても呼ばれていることは十分わかると思うのです。本田さんはフランスへ行けば恩田(オンダ)さんへと変身してしまいますし…。稀には、名前を間違えて読んだり、書いたりすると激昂される方もいらっしゃいますが。

そういえば、ロシアの知り合いにワレリーさんという方がいるのですが、この人にメールをする時に、わたしは実に日本人らしく、VarelyとValeryを良く間違えてしまうのです。向こうでは少しムっとしているのかもしれませんが、とくに怒られたことはありません。また、ワレリーという呼び方も、実際にはワリェーリィーというような発音なのだそうで、何度真似してみても「違う」と言われてしまいます。

話が大分それてしまいました、ヴィンタートゥールです。チューリヒから20kmほどのこの小さな町には古くから音楽院があり、日本ではWestminsterレーベルの録音で知られるウィーン出身のヴァイオリニスト、ペーター・リバールがそこで長く教えていたことでも知られています。

スイスは小国でありながらも、中立国であり、風光明媚な保養地も多いため、多くの音楽家が訪れ、あるいは終の住処とし、時には録音を残しました。音楽という面においてはヨーロッパ有数の豊かな国であったといえます。

しかし、ヴィンタートゥールといってわたしが一番に思い出すのは、地元のレコード店主に招待してもらった丘の上の農家のような作りの食堂で食べた、生ハムと野菜の盛り合わせです。日も暮れて薄暗い店内で、飾り気なく板の上に盛られた、素材の味が口いっぱいに広がる生ハムと野菜をパン片手に食べた記憶が、いまでも鮮明に残っています。