【Music Bird】感性の異邦人

先日とあるきっかけから、どこで読んだものだったか、音楽好きの論客同士が激論の果てに「私は君の理解するように音楽を聴くことはできないが、君も私の理解するように音楽を聴くことはできない」という捨て台詞を吐いたという話を思い出しました。この言葉はまさしく名言で、演奏するにせよ聴くにせよ、音楽体験というものは個人がそれぞれ他者とは違う感性で体験するものであって、その感性が他者と完全に一致するということは、まずありえないことであるといってよいでしょう。

このようなことを思い出したのは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの辻井伸行さんがヴァン・クライバーン・コンクールに優勝したというニュースを聞いたときのことです。

盲目のピアニストが優勝したと聞いてまず感じたのは、盲目でありながらよくぞまあこのような難関を突破したものだ、ということです。盲目であるということは楽譜が直接読めないという点で決定的に不利であって、いかに天与の才があったとしても、おそらく普通の演奏家には考えられないような努力が必要であったことは想像に難くありません。

これは実際に辻井伸行さんと室内楽を競演した方から聞いたのですが、コンクールの室内楽の課題曲であったシューマンのピアノ五重奏曲をほんの数週間で完璧に記憶してしまった、と舌を巻いていました。

しかし、ひねくれ者の私にとって、若干の驚きを別とすれば、このようなことはプロの演奏家であればたとえハンデがあったとしても当たり前のことであって然るべきだと思うのです。

そこで次に頭に思い浮かんできたのが、冒頭の話です。盲目の世界というものは、単に目が見えなくて生活が不便であるとかピアノを弾くのが難しい、というような単純なものではなく、全ての生活、全ての人生を目以外の情報によって行い、それらの情報によって感性や感覚、感情が育まれ、思考するという点において、およそ我々健常者には想像しえない世界であるように思うのです。盲目の人が体験するあらゆる感覚や感情、思考などは、おそらく我々には一生経験しえないものであり、しかし盲目の人もまた、我々が感じるものを一生経験しえないのであろうと、ニュースを聞きながら私はそのように思ったのです。

きっと辻井さんはその想像しえない世界というものをたとえ水の一滴のようにわずかなものではあってもピアノを通して我々に表現し、審査員もまたその感性に魅せられ、応えたのではないでしょうか。

思えば、ヴァンクライバーンその人も──グレン・グールドという先例があったにせよ──鉄のカーテンに閉ざされていたソ連に単身乗り込み、おそらくはソ連の音楽人たちが一度も味わったことのない感性によって、審査員を虜にしたのではなかったでしょうか。このようなことからも、辻井さんがヴァン・クライバーン・コンクールで優勝したというのは象徴的な出来事であったように思います。

願わくば、「盲目なのにすごい」というような言葉で我々の感覚を押し付けられることなく、(この文章のような)無粋な注釈を加えられるようなこともなく、演奏家として、芸術家として大成されることを祈るばかりです──芸術の道は厳しく険しいものである、というのもまた事実ですから。

〔Music Bird プログラムガイド 2009年8月 掲載〕
写真:1972年モスクワ再訪時のMelodiya録音。