【Music Bird】音楽と録音技術

 レコード録音の歴史は、エジソンの発明した蝋管にはじまり、ベルリナーによって実用化された円盤(ディスク)によって世に普及したのは周知の通りです。音楽をディスクという媒体に封じ込めようとした歴史は、ある意味でノイズとの戦いの歴史でもありました。初期に作られたSP盤(78回転ディスク)のノイズは、CDと比べると甚だしいもので、LPが発明されると、そのノイズの少なさからSPはあっという間に姿を消してしまうことになります。そのLPもまた、ノイズや取り扱いのデリケートさに問題があり、ついにはCDが開発されることになります。ここで人類は、初めて録音媒体のノイズという問題から開放されることになります。

 音楽録音の歴史がノイズとの戦いであったのであれば、ここにその目的は達成され、あとは音楽を録音し続けるだけで、新たな録音媒体の開発は不要のはすでした。ところが、CDが開発されてからも新たな機器の開発は依然として続いていて、DVDオーディオやSACDといった規格が次々と開発されています。これは一つには資本主義の歪んだ欲望があるのは間違いのないところでしょう。

 しかし本当の問題は別のところにあるようにも思われます。その顕著な表れが、LPやSPへの回帰です。人類は80年余りも音楽の邪魔をするノイズを消すために努力を重ねてきたにも関わらす、いざそのノイズが取り除かれてみると、音楽の本質はノイズによって邪魔をされてはいなかったのではないかという疑念を持ったのです。

 CDはまた──LPにもその予兆があったとはいえ──高忠実度(High Fidelity)の録音が、音楽の本質へと近づく道ではなかったのではないかという疑念も突き付けます。

 アドルノは1934年、すでにこのように書いています。

 ──複製されたものに具象的な忠実度を求める傾向が現れると、人はそうした技術を改善しようと試み、そこから具体性という成果を期待するようになる。ところがその
具体性がまやかしに過ぎないものであることを当の技術自身が暴き出してしまう。──

 アドルノの盟友ベンヤミンはまた、次のように書いています。

 ──複製技術の急速な浸透とそれと連動した芸術の大衆化は、芸術作品から「アウラ」という唯一性の輝きを失わせてしまった──

 たしかに、LPやSPにはCDにはない何かがあるように感じられる瞬間があります。しかし、我々がこのことに気づくのは、アドルノがまやかしとよぶCDによってのことなのです。

 それにまた、LPやSPはすでに役目を終え、歴史の中に埋もれ始めた媒体です。人類が再び音楽の本質を少しでも汲めるような媒体を開発できることが信じられればよいのですが。

〔Music Bird プログラムガイド 2007年11月 掲載〕