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【Music Bird】主観的観賞のススメ

 ──実のところ、世の中に客観的な批評家などというものは存在しないがゆえに、読者は客観的なイメージは得ることはできないのである。みずからこう主張する者は、みずからをも読者をも裏切ることはしないであろう。客観的なイメージ、客観的な批評家が存在しないのは当然のことである。なぜなら人間は機械ではないのだから。──

 これは、ヨーアヒム・ハルトナックの著した名著『二十世紀の名ヴァイオリニスト』(白水社刊)の序言からの一節です。評論における主観性というものをこれほど明快に表した例は少ないのではないでしょうか。

 いつの頃からか、音楽が主観的である以上、その評論は客観的であるべき、というような風潮が生まれてきましたが、ハルトナックはこの序文の中で、いわゆる客観的なイメージというものは実のところ主観的なイメージに他ならない、と喝破しています。そもそも評論というものは、ある事物に対する視点を提示することであり、その視点が個人の目から見たものである限りにおいて、それは客観的たりえません。

 しかし現実に目を向けると、現代は多くの音源や演奏家、情報に溢れかえり、評論の仕事といえばそれら膨大な資料の整理整頓の役を負わされている感が否めません。そのような中で、客観という衣をまといながら、特定の(資本的な)立場を代弁するような評誦や、主観を盾に修辞に明け暮れながら、その実「事物に対する視点」すなわち主観の欠如した評論などが現れてくるのは、ある意味で必然なのかもしれません。

 問題は、むしろ客観を求める側にあります。

 客観を求める者は、自らの主観を持たず、自らを客観の側へ置きたいと願望します。客観とは多くの人が認めるものであり、疑いのない指標というわけです。しかし、本来客観というものは主観を投影するものであり、主観が不在の客観などというものは存在しえないのではないでしょうか。

 ハルトナックは言っています。

 ──「私が用いる判断基準は、必然的に私自身の判断基準であるほかはない。この判断基準が主観的になればなるほど、今世紀のすぐれたヴァイオリニストを判定するにあたっての、一般的に通用する波長を探りあてる見込みも出てこようというものである。──

 巧みに客観という言葉を避けていますが、この「一般的に通用する波長」を「客観」と読み替えても、それほど大きな齟齬はないでしょう──巧みに避けた理由は考えなければなりませんが。

 私はこの一文から、音楽、あるいは他のどのような芸術を受容するときでも、個人の主観的な視点を通してよりほか、客観というものに近づく道は無い、と感じるのです。芸術が主観的な創造であるならば、それを受容する側もまた主観的たれ、と。

 蛇足ながら、『二十世紀の名ヴァイオリニスト』の序言には、レコードの功罪についてや世代の限界性、ヴァイオリン演奏の未来など、多くの示唆に富む洞察が含まれており、今改めて読み返してみても新たな発見があります。音楽評論の分野における屈指の名評論と存じます。

〔Music Bird プログラムガイド 2007年7月 掲載〕

【Music Bird】ラフマニノフの《晩禱》

 ロシアピアニズムを俎上に上げてから月日が流れましたが、いまだロシアからは離れがたく、お薦めの演奏を尋ねられてもついロシアの演奏家のものへと手が伸びてしまいます。ロシアの演奏の何がここまで私を惹きつけるのか興味深いところではありますが、今は余り深く考えないようにしています。

 先日、縁あってウラディミール・ミーニン指揮のモスクワ国立アカデミー室内合唱団を聴く機会がありました。当日のプログラムはスヴィリドフの小品やロシア民謡が中心でしたが、この合唱団で思い出すのは10年ほど前に同じ合唱団で聴いたラフマニノフの《聖ヨハネ・クリソストムスの典礼》です。無から浮き出してくるような澄んだ歌声とその静謐な音楽には大いに揺り動かされました。

 ラフマニノフの典礼曲にはもうー曲、大作の《晩禱(Vespers)》があります。この合唱曲は、ロシア革命直前の1915年に発表され好評を博しますが、社会主義による宗教の否定によって長い間封印されてきました。1974年に作曲家の生誕100年を記念して発売された、スヴェシニコフとソ連国立アカデミー・ロシア合唱団によるレコードは、驚きと賞賛をもって迎えられたといいます。未だ社会主義の時代にこのような録音が発表できたのは当時モスクワ音楽院院長であったスヴェシニコフによる尽力も少なくなかったであろうと思います。

 私もこの曲を知るまではご多聞にもれずラフマニノフと言えば、ピアノ協奏曲と思っていたものですが、「晩禱」と大きく漢字で書かれた印象深いジャケットのレコードを聴き、たちまちにしてこの曲の虜となってしまいました。この曲は、ロシア正教の典礼音楽であることもあって、普段聴いてきる音楽からは遠く、ほとんど異教的な響きをすら感じてしまうのですが、音楽そのものの美しさがそのような印象を払拭し体に染み渡ってくるようでした。これが正しい受容かと問われればはなはだ心許ありませんが。

 ミーニンは、このスヴェシニコフの弟子であり、彼の衣鉢を継ぐべき人であるとみていいでしょう。日本では、まだこのような曲の演奏にはなじみが薄く、彼の合唱団が来日してもラフマニノフやボルトニャンスキーの典礼曲がプログラムに入れられることはほとんどありません。しかし、いずれは演奏会で彼の《晩禱》を聴いてみたいものです。

 なお、日本では東京トロイカ合唱団が年に1度、目白の東京カテドラルで《晩禱》演奏会を行っています。曲の性格からロシアでもそれほど演奏される機会の多くない曲であり、定期的に演奏会で聴けるのは日本だけであるともいいます。私も2度ほど聴きに出かけたことがありますが、教会の残響とも相俟ってロシアの合唱団に劣らぬ素晴らしい演奏でした。

 この曲に興味をお持ちになった方は、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

〔Music Bird プログラムガイド 2007年8月 掲載〕
写真:アンドレイ・リュブリョフの「聖三位一体」をあしらったチュルヌシェンコ指揮による《晩禱》。[2018年追加]スヴェシニコフによる国内盤。

【Music Bird】音楽の驚き

 我々はなぜ音楽にこれほど魅せられ感動するのでしょうか。

 スイスの言語学者ソシュールは、世界的な文学作品全てに共通する「ある秘密」を発見したと言われていますが、果たして音楽にそのような「ある秘密」が存在するのでしょうか。

 このような問いが、「ドミソ」という旋律を使えば必す心に響く、というような簡単な理由で片付けられるのであれば労はないのですが、古くはバロックから現代まで様々な様式や形式をまとってくる音楽は、黙して語らず、最後には心を揺さぶって去ってゆくだけなのです。

 誰もが知っている、ベートーヴェンの「歓喜」の主題を聴くとき、私はいつもその旋律の美しさや力強さに圧倒されるのですが、それにも増して驚くのは、この生命力溢れる旋律がたった五つの音による全音階によって作られているということを知る時です。この「驚き」は、感動を与えてくれる音楽全てに共通するものです。

 同じベートーヴェンの作品111のソナタの第2楽章で、たった3音からなる下降音形を端緒として胎動を始める音楽が、姿形を変容させながら、最後にもう一度3音の下降音形へと解決されてゆくその美しさを目の当たりとする時、最後にはドの次の音がなぜソである必要があったのか、なぜこのような旋律を書けたのかという驚きだけが残るのです。

 アリストテレスは言っています。「驚異すること(thaumazein)によって人間は、哲学を始めたのである。」

 音楽もまた「驚異」、「驚き」に満ちています。ただただ美しいことへの驚き、心を揺さぶる旋律への驚き、突き通すような音を秘めた演奏に対する驚き、そして音楽そのものが存在することへの驚き。繰り返し同じ曲を聴き繰り返し同じ演奏を聴いても、常に新たな驚きが発見されてゆくのです。

 この「驚き」が音楽の「ある秘密」であるかどうかはわかりません。面白いことですが、作曲家プロコフィエフはシチェドリンの「作曲の極意は何か」という問いに「いかに聴衆を驚かすかという事だ」と答えたといいます。

 ソシュールは「ある秘密」をとある文学者へ伝えたところ、その説は一蹴され、「ある秘密」を公にすることなく失意のうちに亡くなったといわれ、我々が「ある秘密」を知ることは永遠に叶わなくなってしまいました。

〔Music Bird プログラムガイド 2007年10月 掲載〕
写真:ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品111の初版譜。