【Music Bird】ラフマニノフの《晩禱》

 ロシアピアニズムを俎上に上げてから月日が流れましたが、いまだロシアからは離れがたく、お薦めの演奏を尋ねられてもついロシアの演奏家のものへと手が伸びてしまいます。ロシアの演奏の何がここまで私を惹きつけるのか興味深いところではありますが、今は余り深く考えないようにしています。

 先日、縁あってウラディミール・ミーニン指揮のモスクワ国立アカデミー室内合唱団を聴く機会がありました。当日のプログラムはスヴィリドフの小品やロシア民謡が中心でしたが、この合唱団で思い出すのは10年ほど前に同じ合唱団で聴いたラフマニノフの《聖ヨハネ・クリソストムスの典礼》です。無から浮き出してくるような澄んだ歌声とその静謐な音楽には大いに揺り動かされました。

 ラフマニノフの典礼曲にはもうー曲、大作の《晩禱(Vespers)》があります。この合唱曲は、ロシア革命直前の1915年に発表され好評を博しますが、社会主義による宗教の否定によって長い間封印されてきました。1974年に作曲家の生誕100年を記念して発売された、スヴェシニコフとソ連国立アカデミー・ロシア合唱団によるレコードは、驚きと賞賛をもって迎えられたといいます。未だ社会主義の時代にこのような録音が発表できたのは当時モスクワ音楽院院長であったスヴェシニコフによる尽力も少なくなかったであろうと思います。

 私もこの曲を知るまではご多聞にもれずラフマニノフと言えば、ピアノ協奏曲と思っていたものですが、「晩禱」と大きく漢字で書かれた印象深いジャケットのレコードを聴き、たちまちにしてこの曲の虜となってしまいました。この曲は、ロシア正教の典礼音楽であることもあって、普段聴いてきる音楽からは遠く、ほとんど異教的な響きをすら感じてしまうのですが、音楽そのものの美しさがそのような印象を払拭し体に染み渡ってくるようでした。これが正しい受容かと問われればはなはだ心許ありませんが。

 ミーニンは、このスヴェシニコフの弟子であり、彼の衣鉢を継ぐべき人であるとみていいでしょう。日本では、まだこのような曲の演奏にはなじみが薄く、彼の合唱団が来日してもラフマニノフやボルトニャンスキーの典礼曲がプログラムに入れられることはほとんどありません。しかし、いずれは演奏会で彼の《晩禱》を聴いてみたいものです。

 なお、日本では東京トロイカ合唱団が年に1度、目白の東京カテドラルで《晩禱》演奏会を行っています。曲の性格からロシアでもそれほど演奏される機会の多くない曲であり、定期的に演奏会で聴けるのは日本だけであるともいいます。私も2度ほど聴きに出かけたことがありますが、教会の残響とも相俟ってロシアの合唱団に劣らぬ素晴らしい演奏でした。

 この曲に興味をお持ちになった方は、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

〔Music Bird プログラムガイド 2007年8月 掲載〕
写真:アンドレイ・リュブリョフの「聖三位一体」をあしらったチュルヌシェンコ指揮による《晩禱》。[2018年追加]スヴェシニコフによる国内盤。