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ヴェネツィアのゴンドラ [News写真2005年5月]

なにやら世界名所巡りになりつつありますが、ヴェネチアです。

ヴェネツィアはクラシック音楽にゆかりの深いところで、ガブリエリやヴィヴァルディをはじめとして、ガルッピ、さらに現代音楽で知られるヴォルフ=フェラーリ、マリピエロとその弟子であるノーノなどもヴェネツィアの作曲家として知られています。

他にも、モーツァルトはイタリア楽旅時にヴェネツィアに滞在し、その時ガルッピからの影響を受けたと言われ、メンデスルゾーンはヴェネツィアの舟歌から有名な無言歌を残しています。また面白いところでは、あのストラヴィンスキーが墓地の島といわれるサン・ミケーレ島へ埋葬されているのですが、それについてのこぼれ話は後へととっておきましょう。

アドリア海の真珠、ヴェネツィアはまた、多くの文豪の愛する町でもありました。ボッカッチョ、シェイクスピアは言うにおよばず、バイロン、リルケ、プルースト、ヘミングウェイ、エズラ・パウンド等々…。

中でもトーマス・マンは、美と破滅の象徴としてのヴェネツィアを、美しく、しかし真実の持つ残酷さをもって描いています。当時のマンは、ヴェネツィアが徐々に沈みつつある(つまり滅びへの過程を歩んでいる)ということを知ってはいなかったと思うのですが、権威、名誉が美の前に滅んでいく場としてヴェネツィアを選んだというのは、決して偶然ではなかったように思います。

1929年、グスタフ・フォン・アッシェンバッハの亡くなったこの地で息を引き取った人物がいます。バレエ・リュス、つまりロシア・バレエ団を率いて時代の寵児となったセルゲイ・ディアギレフです。後に大指揮者となる美少年、イーゴリ・マルケヴィッチを連れて立ち寄ったヴェネツィアで客死し、この地に埋葬されたのでした。

稀代の山師ディアギレフは、美の象徴である少年と、すでに名声を手に入れた者の死、という最後の虚構をこの地で完結させた、とも言えるでしょう。そして、ディアギレフ生涯の盟友ストラヴィンスキーは、没後この地への埋葬を望んだのでした。ディアギレフにとって、これ以上の追悼の辞はなかったでしょう。

この町は博物館には適していない。なぜならそれ自体が、一つの芸術作品、しかも人類が作り出した最高傑作だからだ。

ディアギレフ、ストラヴィンスキーと同じロシアの亡命詩人、ヨシフ・ブロツキーはヴェネツィアをこのように歌ったのでした。


ヴィンタートゥール [News写真2005年6月]

ヴィンタートゥール、ウインターツール、ウィンタートゥーア、正直、わたしは実際にどのように読むのか良く分かりません。

いきなりの脱線で申し訳ありませんが、地名、人名の読み方で、ずいぶん昔に「アイヴズ、アイヴス論争」と私が勝手に名づけた、ため息しか出てこないような論争があったのを思い出しました。

ざっくり要約してしまうと、アメリカの作曲家アイヴスを、アイヴスと読むかアイヴズと読むのかで紛糾したのです。この手の議論は、クラシック評論などでも散見され、ヴァグナーかワーグナーか、ドヴォルザークがドゥヴォジャークか、ドビュッシーかダビュシかなど。そこそこ名の知れた評論家先生がこのようなことを得意げに書いているのを見るとがっかりしてしまいます。

ただ個人的には気になっている読み方もあります。ドイツ系フランス人のソプラノ、Irene Joachimです。彼女の父はドイツ人ですから、まっとうに読めばヨアヒムだと思うのですが、仏文出の人はジョアシムと読みますし、ジョアキム、ヨアキムと読む人もいます。さらにはジョアシャンと読む例まであって、何がなにやらです。

わたし自身は、日本人が欧米人の名前を正しく発音するのは難しい上に、それをカナで正確に表記するというのは、そもそもがナンセンスであると考えています。これを逆説的に(弁証法的にと書いたほうがスノブらしいでしょうか)考えると、例えば鈴木さんが外国の人に、スズーキーさんと呼ばれても、シュズキさんと呼ばれても、大して気にはならないし、どちらであっても呼ばれていることは十分わかると思うのです。本田さんはフランスへ行けば恩田(オンダ)さんへと変身してしまいますし…。稀には、名前を間違えて読んだり、書いたりすると激昂される方もいらっしゃいますが。

そういえば、ロシアの知り合いにワレリーさんという方がいるのですが、この人にメールをする時に、わたしは実に日本人らしく、VarelyとValeryを良く間違えてしまうのです。向こうでは少しムっとしているのかもしれませんが、とくに怒られたことはありません。また、ワレリーという呼び方も、実際にはワリェーリィーというような発音なのだそうで、何度真似してみても「違う」と言われてしまいます。

話が大分それてしまいました、ヴィンタートゥールです。チューリヒから20kmほどのこの小さな町には古くから音楽院があり、日本ではWestminsterレーベルの録音で知られるウィーン出身のヴァイオリニスト、ペーター・リバールがそこで長く教えていたことでも知られています。

スイスは小国でありながらも、中立国であり、風光明媚な保養地も多いため、多くの音楽家が訪れ、あるいは終の住処とし、時には録音を残しました。音楽という面においてはヨーロッパ有数の豊かな国であったといえます。

しかし、ヴィンタートゥールといってわたしが一番に思い出すのは、地元のレコード店主に招待してもらった丘の上の農家のような作りの食堂で食べた、生ハムと野菜の盛り合わせです。日も暮れて薄暗い店内で、飾り気なく板の上に盛られた、素材の味が口いっぱいに広がる生ハムと野菜をパン片手に食べた記憶が、いまでも鮮明に残っています。


竹内進 バリトン・リサイタル

ひとつ飛ばしてしまいましたが、昨年12月6日に行われた竹内進さんによるフランス歌曲リサイタルです。

竹内さんはフランスの名バリトン、カミーユ・モラーヌに師事された方なのですが、私にとってもモラーヌは特別な存在であったため話の合わないはずはありません。時々ふらっとお店に現れては、モラーヌ来日時の話、モラーヌのライバルであったジャック・ジャンセンのこと、留学時代のスコラ・カントルムの話などを聞かせてくれるのです。

そんな竹内さんは、年に1度フランス歌曲リサイタルを催されており、その年ごとに作曲家やテーマを定めたプログラムを用意されます。昨年はプーランクでしたが、今年はさらに一歩進んで、フランス六人組胎動期の作品です。

一口に六人組の歌曲作品といっても、プーランクは歌曲全集が発売されているなど比較的その作品は知られていると思うのですが、他の作曲家はというと、ミヨーやオネゲルといった有名な作曲家ですらあまり録音がなく、オーリック、デュレ、タイユフェールともなると、歌曲の録音を探すこと自体が骨の折れる作業となってしまいます(これは主にレコードの場合ですが、CDでもそれほど事情は変わらないと思います)

それでもSPの時代から、六人組の歌曲コンサートを始めて行ったジャヌ・バトリやクレール・クロワザがいくつかの録音(作曲者自身のピアノによる)を残していますし、高名なメリザンド歌手イレーヌ・ヨアヒムは、LP初期に「フランス六人組」という大変に素晴らしいアルバムを残しています。

竹内さんのコンサートの特徴の一つは、歌う前に竹内さん自らが、ときには関連する資料や写真を手に、曲を解説をすることです。その朴訥とした口調と、「今日はどうものどの調子がおかしくて…」とか「練習不足で…」と言うような、わたしが勝手に「自虐ネタ」と呼んでいるコメントを聴くのが密かな楽しみとなっています。

もう一つの特徴は、訳詩付きの大変に凝ったプログラムで、訳文も竹内さん自らが意味の伝わる範囲で逐語的に訳されたもので、巷で読むことのできる文学的意訳とは、また一味違ったものとなっています。そもそも、多くの曲は日本語の訳文さえ手に入れるのに一苦労するようなものばかりなのですが。

肝心のコンサートは、ご本人はこれまた自虐的に「今日は特に調子が悪かったので…」とおっしゃっておりましたが、私は初めて聴くデュレのモダンな作風に「おお」と思ったり、ミヨーの「花のカタログ」が、実は花屋さんの宣伝をそのまま詩に使っていることを初めて知ったり、おなじみ動物詩集でアポリネールの天才ぶりを再認識したりと、実に楽しい一夕となったのでした。

昨今は、本場フランスでもフランス歌曲はあまり顧みられていないように思います。ましてや日本でフランス歌曲を聴く機会というのは、(外来演奏家が歌うような有名曲を除けば)非常に限られていると言わざるをえません。竹内さん自らおっしゃるように、師であるモラーヌとは比較できないのかもしれませんが、このような機会を毎年用意してくださる竹内さんの姿勢には頭の下がる思いです。

 


【お知らせ】桑田穣 J. S. バッハ 無伴奏ヴァイオリンを聴く会

 

この企画には半ば関わっているので手前味噌となってしまいますが、当店のお隣、Ralph and Sunnieにて、ヴァイオリニストの桑田穣氏の演奏による、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータを聴く会が下記の通り開催されます。

 

J. S. バッハ 無伴奏ヴァイオリンを聴く会

桑田穣(ヴァイオリン)

2011年5月14日(土)

開演 18:30 (開場 18:00)

演奏曲目

無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番, BWV 1001
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番, BWV 1004

無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番, BWV 1003

 

詳細、お問い合わせはRalph and Sunnieまでお願いいたします。

それほど多いというわけではありませんが、職業柄クラシックの演奏家の方々とも知り合うことがあります。その中の一人がヴァイオリニストの桑田さんです。

よく「演奏家は自分が一番と思っているから、人の演奏は聴かない」と言われます。実際にはこの言葉はかなり極端であるとは思うのですが、わたしがこれまでに出会った演奏家の多くは、他の演奏を参考程度にしか聴かなかったり、演奏技術に非常にうるさい方が多かったように思います。ピアノでいえば均一なタッチ、揺れないテンポ、混濁しないペダルワークなどなど…これらが少しでも破綻するようであれば、良くない演奏というわけです(この線でいくとわたしの好きな昔のロシアのピアニストなどは全員落第なのですが)

たしかに楽器の演奏は、素人目で見てもかなり難しく、また特殊な技術が必要であることは分かりますし、技術がなければ表現できないことというのも随分あるのだと思います。しかし、残念なことに音楽は計算や競技ではなく芸術です。技術をいくら磨いたところでそれが芸術的表現へとつながらなければ全く無意味なことになってしまいます(最近は、乱立するコンクールなど、音楽がまるでオリンピックのようになりつつあるようにも思えますが…)

桑田さんは(失礼ながら)演奏家には珍しく、1950年代や60年代に録音された音楽──技術より以上に音楽が重視された時代、音楽がまだ芸術であることを十全に保っていた時代の音楽を聴くのを楽しみとされている方です(今でこそ何人かそのような演奏家の方々とも知り合いになりましたが)。ウォルフガング・マルシュナー、ポール・マカノヴィツキー、ユリアン・シトコヴェツキー等々。そして、わたしが何よりも好きな時代もこの時代なのです。

そんな風にして、日々情報をやり取りさせていただいていた桑田さんですが、最近バッハの無伴奏を練習しているという話を聞きおよび、それならば、と話が進みこのコンサートが開催できる運びとなったのでした。

50年代、60年代の「芸術」を楽しまれる桑田さんが、どのようなバッハを奏でるのか、期待ふくらむ今日この頃です。


Hermes / Cassandre のトランプ

ブログの更新を怠けてぼーっとしている間に、いつの間にやらすっかり盛夏になってしまいました。

ところで当店には少しではありますが、レコードジャケットとは別に音楽に関係あったりなかったりする写真や絵を飾っているのですが、あまり同じものを掛けていると飽きてきてしまいます。そこで、暑気払いの気分転換も兼ねてカサンドルがエルメスのためにデザインしたトランプを額装してもらいました。

A. M. カサンドルは、アールデコ時代を代表するデザイナーの一人で、「ノルマンディ号」や「北方急行」のポスターやイヴ・サン・ローランのロゴなど、古さを感じさせるどことか、むしろ一歩も二歩も先んじているかのような名作の数々を生み出しました。しかし、レコードコレクターという観点から見ると、1950年代に多くのレコードジャケットのデザインを手がけたおなじみのデザイナーということになります。

さてこのエルメスのトランプ、数字札は共通のデザインとなっていますが、絵札とエースは4種それぞれに違うデザインが施されています。また、トランプ側面には金箔が塗られているという手の込んだものとなっています。

このトランプには同じエルメスによる復刻版もあるのですが、こちらはトランプ裏面が無地であったり(この裏面のデザインもカサンドルの面目躍如たるデザインで、赤系と青系の2種類が作られました)、側面も金箔処理がされていなかったりと、(レコードと同じく)やはり初版が良いという典型的な一例となっています。

一緒に額装してもらった、ヴェルジュビロヴィッチ(帝政ロシア時代の宮廷チェリスト)の小さな写真と共に、また違った気分で音楽を聴くことができそうです。

 


カサンドルとレコードジャケット──およそ20年ぶりの『カッサンドル展』に寄せて

「カサンドル工房──ATELIER CASSANDRE」は、レコードコレクター、ことにジャケットを愛好するコレクターにとっては見過ごすことのできない名前の一つではないでしょうか。磨ぎ澄まされたタイポグラフィと幾何学模様とで織りなされたその装丁は、今日のようにフランスの初期版が容易に入手できるようになる以前から、またカサンドルというデザイナーの名を知る前から指に刺さった棘のようにして我々コレクターに印象を刻んだのでした。

はなはだ怪しげな記憶ですが、私がはじめて入手したカサンドルのレコードジャケットは、ディヌ・リパッティの『ブザンソン告別演奏会』のアメリカAngel盤ではなかったかと思います(奇しくも今年はリパッティ生誕100年にあたります。リパッティも私にとって思い出深いピアニストの1人ですので、いずれ一文をしたためたいと考えています)。灰色と朱赤の縁模様の中になんの気取りもないセリフ体で「Dinu Lipatti」と置かれた文字が不思議と強く印象に残りました。その後、Pathé盤(フランスColumbia盤などの国外輸出用レーベル)のジェラール・スゼー『ラヴェル歌曲集』やジャニヌ・ミショーの『パリのワルツ』(スノヴィッシュに『ヴァルス・ド・パリ』というのもよいでしょう)などを手にしましたが、カサンドルというデザイナーは未だ霧の向こう側でした。

写真はオリジナルのフランスColumbia盤。ただし、アメリカAngel盤も箱だけはフランス製で、フランス盤と同一の造作でした。

私がカサンドルを、というよりもレコードジャケットというものがコレクションとして成り立つものとして認識したのは、1992年に出版された『12インチのギャラリー―LP時代を装ったレコード・ジャケットたち』を読んでからではないでしょうか。深更、六本木のABC(青山ブックセンター)でその本を見かけ、時間も忘れて何度も読み返してから購入したことを今でも良く覚えています。当時は『デザインの現場』増刊でしたが、何年か後にはカバー付き単行本として再販されました。多分に初めて手に取った時の感激が重なっているのでしょうが、私は今でも増刊版の雑誌らしい造りとキッチュなデザインが好きです。

『パリのワルツ』ジャニヌ・ミショー。《ファシナシオン》《愛の小径》《ムーラン・ルージュ》ほかコケットなミショーならではのワルツ名品がずらりと並びます。なおジャケットは「ATELIER CASSANDRE-JOUBERT」名義。この頃より「ATELIER JOUBERT」名義のものが多くなってきます。出典を忘れてしまいましたが、リュック・ジュベールはカサンドル工房の写真撮影を担当しており、このジャケットのエッフェル塔の写真もジュベール撮影と記載されています。

話が横道へ逸れてしまいました。カサンドルはアールデコの申し子として、また街頭ポスターの旗手として1920年台から30年台のパリの街を席巻します。その後、雑誌『ハーパース・バザー』の表紙デザインやいくつかの書体デザイン(後のジャケット装丁にも多用されたペニョー体など)、舞台装置の製作などを行い、1950年代中頃より、フランスPathé社のレコードジャケットの装丁を手がけるようになります。

当時のLPレコードは現在とは比べ物にならないほどの高級品であったため、Pathé社はそれに相応しい装丁を求めたのでしょう。Mercure印刷所で製作されたカサンドルによるジャケットは、厚いボード紙2枚を合わせたジャケットにデザインを施した化粧紙が張られ、レコードはタイトルが箔押しされた引き出し棒の付いた内袋に収められました。この棒付きジャケットのものが「Deluxe盤」とされ、紺の縞模様の統一デザインにタイトル紙が貼りつけられた簡略版ジャケットが廉価な「Standard盤」として、同一の盤が2つの価格体系で販売されたのです。カサンドルによるジャケットデザインは、おそらく1955年頃から50年代末頃まで手がけられ、およそ5年の間にデザインされたジャケットは、あまりに膨大なため数えようとしたことはありませんが、100を優に超え200点近くに上るのではないかと思われます。

同一番号のDeluxe盤とStandard盤。このマルケヴィッチによる《音楽の捧げもの》のDeluxe盤装丁は、舞台美術を想起させ、カサンドルの絵画的傾向も伺える名作の一つです。

カサンドルは当時、デザイナーとしてよりも画家として認められることを望んでいたと言われ、ジャケット装丁の中にもいくつか絵画的作品を用いたものを見ることができます。この時期には、エクサンプロヴァンス音楽祭の『ドン・ジョヴァンニ』の舞台美術も手がけており、この時の舞台美術集が『Decor de Don Juan』としてスイスのKiester社から発売された他、ロスバウト指揮によるその時の実況録音盤はカサンドルの禁欲的なタイポグラフィ装丁によってPathéレーベルより発売されました。この実況録音盤は、録音状態の悪さを超えた名演として今なお愛好され続けています。

1968年、5月革命の熱気冷めやらぬ中、カサンドルは拳銃で自らの生に終止符を打ちます。鬱症状であったこと、画家として望むような評価が得られなかったこと、広告芸術の変容に耐えられなかったこと、新たな書体デザインが認められなかったことなど、その要因は種々推測され、今開催されているカサンドル展の目録では、その死の要因を様々な史料をもとにして見事にひもとかれています。しかし、「芸術家の死」というものは、自ら選んだものであっても、あるいはそうでなかったとしても、時代と分かちがたく結びついていはしないでしょうか。カサンドルの死は、広告芸術が変容した年、民主主義が大きく転換した年、文化と社会との関係が劇的な変遷を遂げた年、すなわち1968年でなければならなかった、と思われてならないのです。

会期も残り1ヶ月ほどとなってしまいましたが、八王子夢美術館にて『カッサンドル・ポスター展』が開催されています。庭園美術館、サントリー天保山ミュージアムでの展覧会からおよそ20年ぶりの展覧会となります。

私は、埼玉県立近代美術館で開催されていた折に足を運びましたが、オリジナルポスターの色彩が持つ魅力、作品としての力強さに半ば圧倒されました。100年近くも前の作品たちによって、会場全体がさながらアールデコの直線のように張りつめている様には驚くほかありませんでした。レコード店の必需品『Pathé蓄音機』のオリジナルプリントや、エルメスのためにデザインした洒脱なトランプ、画家としての作品など展示作品も多岐にわたり、少数ですがレコードジャケットも展示されていました。目録は、美しい印刷とともに上述の通りカサンドルの死にまつわる読み応えある小論などあり、今回もまた保存版とするに相応しい出来となっています。

カッサンドル・ポスター展──グラフィズムの革命

Posters of A.M.Cassandre A Graphic Revolution
2017/04/07(金)〜 2017/06/25(日)
開館時間 10:00〜19:00
入館は閉館の30分前まで
休館日  月曜日

開催概要
ウクライナに生まれ、フランスで活躍した20世紀を代表するグラフィックデザイナー、カッサンドル(1901年〜1968年)。彼が生み出した作品は、時代の先駆的な表現として、グラフィックデザイン界に「革命」をもたらします。都市の街頭を埋め尽くしたポスターはもちろん、レコードジャケットや雑誌の表紙等、数々の複製メディアの仕事を手がけ、生活の隅々にそのデザインが満ち溢れました。カッサンドルは機械と大量消費の時代をまさに体現したのです。
この展覧会ではカッサンドルの数々の仕事を、ファッションブランド「BA-TSU」の創業者兼デザイナーである故・松本瑠樹氏が築いたコレクションを通してご紹介します。松本氏のカッサンドル・コレクションは、保存状態の良好なポスターの代表作、およびカッサンドル直筆の貴重なポスター原画を含むものとして、世界的に高く評価されています。国内ではおよそ20年ぶりの回顧展となる本展で、カッサンドルが到達した至高のポスターデザインをご堪能いただければ幸いです。
※5月23日より作品の一部に展示替えがあります。

CLASSICUSでもプチ・カサンドル展。Hermèsへデザインしたトランプとジャケットいくつか。ここでは少し趣向を変えて、タイポグラフィよりもグラフィックを中心としたジャケットを集めました。カサンドルは決して幾何学と直線の信奉者だったわけではなく、アーツ・アンド・クラフツやアールヌーヴォーからもいかに多くのものを汲み得ていたのかが分かります。参考:Jacket Arts──ATELIER CASSANDRE


『Discopaedia of the Russia Pianism』

振り返ってみますとよくよく長いこと「ロシアピアニズム」にのめり込んできたわけですが(そしてこれから先ものめり込み続けることになるのだろうと思いますが)、この辺りで資料を再度まとめておくのも悪くないのではないかと思い立ち、この度『Discopaedia of the Russia Pianism』として出版する運びとなりました。

出版といいましてもAmazonのオンデマンド出版となりますので、ご不便かとは思いますが購入できるのはAmazonのみとなります(店頭に若干数置いております)

内容は、youngtreepress版『ロシアピアニズム』巻末のディスコグラフィを再編集、大幅増強したものと考えていただいてよいと思います。国外への展開に色気を出して、解説文等は全て英文として、巻末にロシア語、日本語カナを含めた人名索引を付ける形としました。この索引は、分かる範囲ではありますが、生没年、国籍、父称(ロシア語のみ)などを含んだ詳細なものとなっております(とあえてここで書くのは、これに随分と苦労したことへのいかばかりかの反動です)

情報化社会の破滅的な発展を考えますと、このような書籍が役に立つのもあと少しばかりではないかと思いますが、何某かお役に立てていただければ幸いです。 ご購入は、こちらのページより可能です。


『Discopaedia of the Russia Pianism』ローマ字表記、日本語読みについて

『Discopaedia of the Russia Pianism』におけるロシア名のローマ字表記については書籍内にも書きましたが、スペースの関係で例を載せることができなかったため、ここに代表例をいくつか挙げます。

慣例とは違った綴り例としては、「Alexander → Aleksandr」「Neuhaus → Neigauz」「Afanassiev → Afanasiev」「Schnittke → Shnitke」などがあります。

反対に、当書のローマ字規則からは外れるものの、慣例に従った例としては、「Tchaikovsky ← Chaikovsky」「Rachmaninov ← Rakhmaninov」「Scriabin ← Skriabin」「Mussorgsky ← Musorgsky」「Richter ← Rikhter」などがあります。

 

また、カナの読みについても実際の発音に近づけようという目論見のもと、今までの慣例とは若干異なる表記となっています。ローマ字同様の変換規則に則った表記を基本としていますが、変換テーブル表をまだ作っていませんので下記に概要を示します。

主だったものとしては「di: ディ → ジ」「ti: ティ → チ」が挙げられます。例としては、「ウラディーミル → ウラジーミル」「ユーディナ → ユージナ」「ティモフェイエワ → チモフェーエワ」などのようになります。

また、ロシア文字の「я/ya」は「ヤ」としましたので「Tatyana → タチヤナ」「Mariya → マリヤ」としています。アルメニアの典型的な名前「Khachaturyan」「Nersesyan」などは、ロシア語とはまた違う発音であろうとは思いますが(そもそも原語はロシア文字ではないわけですが)「ハチャトゥリヤン」「ネルセシヤン」等としました。

発音に関しては難しい部分もあり、「Va」を「ヴァ」と読むか「ワ」と読むかはロシア人によってもまちまちなため判断に迷うところです。本書では濁らない「ワ」を基本とし、かなり気まぐれ、かつ恣意的に「ヴァ」を用いました(例えば、ウォスクレセンスキーやゴロヴァノヴでは今一つ様になりませんので)

また、ロシア語における「e」(および「ë」)の発音もカナへ変換するには難物です。実際の発音を聞いてみますと「フェドセーィエフ」「ニカラーィエワ」「ワリィエーリー」に近いような発音に聞こえるのですが、これをそのままカナとすると冗長となってしまうため、煩雑さを避ける意味もあり慣例通り「フェドセーエフ」「ニコラーエワ」「ワレリー」等としました。心の中で「ィ」とアクセントを足していただければと思います。

もう一つ、アクセント無しの「о」も難しい問題です。この文字はロシアでは「ア」と発音するため、本来であれば先程も挙げたような「ニカラーエワ(ニコラーエワ)」や「ガラワーノフ(ゴロワノフ)」「サフラニツキー(ソフロニツキー)」となりますし、「オレグ」というファーストネームも、ロシア人は明らかに「アレグ」と発音しています。しかし、これを原語に近づけてしまい、結果として書籍としての使い勝手が悪くなってしまっても仕様がありませんので、慣例に倣って「オ」としました。

バルト三国や中央アジア諸国ともなると、ロシア語とは全く違った発音となるのは想像に難くありません。これらの発音については、ロシア語綴りを基本としましたが、当たらずとも遠からずという程度になっているのではないかと危惧しています。

 

いずれにしましても、この手の問題においてある程度の誤謬は避けられないところです。「外国語を完璧にカナ表記することは不可能である」ことを念頭におおらかな心でもってご容赦いただければ幸いです。

 


ジャン・ロンドーの《ゴルトベルク変奏曲》──楽譜をめくる意味

過日、ジャン・ロンドーのチェンバロによる《ゴルトベルク変奏曲》のコンサートを聴いてきました。

ジャン・ロンドーは、この文章を書くにあたって調べてみたところ、鬼才とも呼ばれるフランスの若手チェンバロ奏者でこれが初来日だったとのことです。

私はゴルトベルク変奏曲を殊のほか愛好してはいるものの、このコンサートは行けなくなった友人からチケットを譲り受け、物見遊山で出掛けたことを告白しておきます。その友人も、ロンドーのチラシが余りにおかしかったのでチケットを購入したようですが。

ともあれ、当日私は文化会館の席に収まり、演奏会は始まりました。リパッティやバックハウスを思い出させるようなアルペジオを爪弾いたのち、弾きはじめられた《ゴルトベルク変奏曲》は拍子抜けするほどオーソドックスで、むしろ奇抜なチラシや「鬼才」という言葉が少し煽りすぎなのではと感じられるほどです。

それにしても、強弱のつかないチェンバロという楽器による演奏は、グールドをはじめとしたピアノによる名演を聴いた耳にとっては残念ながら余りにもモノクロームであって、その欠点を補うためにフレージングを強調したりテンポを細かく動かしてはいるのですが、これがまた弦楽器の古楽器奏法独特のアクセントを彷彿させてしまいます。古楽器演奏のあの年々どぎつくなるフレージングやアクセントは、音量による表現不足を補うものであったのかと妙に得心してしまいます。そういえば、《冬の旅》をフォルテピアノで伴奏した演奏会でも、テンポをことさら揺らす伴奏に閉口したものでした。

本来デュナーミクやアゴーギク(私は、この目を引く外来語があまり好きになれません。日本人なのですから「抑揚」と「緩急」で良いではないかと思ってしまいます)というものは、表現や歌いまわしの中において分離不能な混淆物として現れるはずであるのに、昨今の古楽器奏法は、まるで抑揚がつけられないので代わりに緩急をつけているようにすら思われてしまいます。18世紀に演奏された場や空間を想像するに、それほどの濃淡ある表現が必要であったとも思われないのですが。

一つの頂点ともいえる第25変奏では、始める前に大きく間を取り、ゆったりとしたテンポで繰り返しも全て行い、この変奏への思い入れは大いに感じられましたが、表現としての深みがその思い入れほどあったでしょうか。さらに言えば、この変奏をこれほど大切に扱っておきながら、ダ・カーポ主題へと戻る直前の最後の高揚、クオドリベットを繰り返しも行わずに弾き流したのことには少なからず失望を覚えました。私はバッハがこの変奏を最後に配したことには少なからぬ意味があると信じているのですが。とはいえ、第14変奏や16変奏などではチェンバロの鋭い音色を活かした表現で面白さを感じもしましたが、全体としては余り惹きつけるようなものは感じられませんでした。

もう一つ目を引いたのが曲の間です。ロンドーは多くの曲間に一呼吸を置いていましたし、勿体をつけたような楽譜のめくりかたをして長い間を取ったりもしていました。曲を間断なく続けたいのであれば、暗譜するなり譜めくりをつけるなりできるわけですから、何かしら彼なりの考えがあってのことだとは思いますが、音楽の流れが遮られるような気がして私にはあまりしっくりと来ませんでした。あるいはこれは新手のアゴーギクなのでしょうか。

楽譜をめくるという行為にはもちろん意味があります。タルガムのTED講演によれば、リヒャルト・シュトラウスが自作の指揮で淡々と指揮棒を上下させながら譜面をめくっているのは、もちろん自分の曲を忘れてしまったのではなく、「楽譜によって演奏するのだ」という暗喩を楽団員へと伝えているのだそうです。一体ロンドーは誰に向かって楽譜をめくっていたのでしょうか。

ダ・カーポ主題が静かに終わりをつげましたが、誰一人として拍手をすることなく、ロンドーも微動だにしません。一体この静けさは何なのでしょう。決して満足のいかない演奏ではなかったとしても、そこまで深く心に染み入るような演奏であっただろうか、と自問してしまいます。30秒、あるいは1分くらいたったでしょうか、熱烈な拍手とブラボーが湧き起こりました。正直を言うと、私は高揚したこの場の雰囲気と自分との落差にすっかり冷水を浴びせられた格好となり、いささかなりに楽しんでいた気分も雲散霧消してしまいました。拍手の鳴り止まぬ中、席を立って早々に文化会館を後にしました。


ヴィヴィアナ・ソフロニツキー オール・ショパン・プログラム

年の瀬もおし迫った12月26日、昨年最後のコンサートは、ヴィヴィアナ・ソフロニツキーによるオール・ショパン・プログラムでした。

ソフロニツキー、この名前は私にとって、ネイガウスなどとともに特別なものです。演奏を聴かずとも「名演」と宣言してしまって間違いのない名前といっても良いでしょう。

そんなある日、ソフロニツキーが来日するという情報が舞い込んできました。はて、わがウラディーミル・ソフロニツキー師は1961年に身罷っているはずだが、と調べてみると、来日するのは、ヴィヴィアナ・ソフロニツキーといって、ソフロニツキー師の娘のようなのです。娘ですからソフロニツカヤではないかとも思うのですが、ロシアも少しづつリベラルになっているのかもしれません。

そのヴィヴィアナさんがショパンを演奏するというのですが、これが困ったことにショパン時代の古い楽器(の復刻)、つまりフォルテピアノでの演奏なのです。一般にレコードマニアと呼ばれる人種はあまり古楽器が好きではなく、残念ながら私もその例に漏れないのです。しかしソフロニツキーという名前には逆らえません。早速チケットを手配しました。

とはいえ、ソフロニツキー師は非常にレベルの高いロシア・ピアニズムの中でも別格中の別格のピアニストでしたから(トロップさんが、それは神の啓示のごとくであった、とおっしゃっていたのを覚えています)、ヴィヴィアナさんに過大な期待するのは禁物です。

一聴しての感想は、やはりフォルテピアノの音は小さいということと、意外に細かなニュアンスは出せるものだな、ということでした。しかし聴き進んでゆくと、どうにもヴィヴィアナさんの演奏とウラディーミル師の演奏が重なって聴こえてきてしまうのです。その力強く粘ったようなタッチは、悲劇的な色彩を帯びていて、そう、極論してしまうとウラディーミル師生き写しなのです。フォルテピアノのパラパラとした音が、ウラディーミル師の悪い録音の音と妙に似ているのが、またおかしくもあります。

ここまで似るのは何故なのか。同行したピアニスト氏の推測では、体格(彼女はとても背が高い)や手の形、あるいは音を聴く耳が遺伝しているのかもとのことでした。

アンコールでは、3台目のフォルテピアノを出してきての聴き比べの後、一番古いモデルでモーツァルトの幻想曲を演奏しました。それは素晴らしい演奏であったのですが、その力強いタッチやウラディーミル師譲りの解釈は、フォルテピアノで弾くモールァルトの様式からはかけ離れているようにも感じました。

何にしても、毎年数え切れないほどのロシア・ピアニストが来日しているなか、これほどのピアニストが今までほとんど知られていなかったというのは驚くべきことだと思います(ソフロニツキーのピアニズムが今どきあまり受けるタイプではないのかもしれませんが)

見ているとフォルテピアノが楽しくて仕方がない様ではありますが、残念ながらヴィヴィアナさんのピアニズムはモダン・ピアノでこそ生きるのではないかと思います。次の機会には、ぜひモダン・ピアノで聴いてみたいものです。