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ヴァンドーム広場(パリ) [News写真2005年4月]

花の都、芸術の都、パリです。

パリへ行く前は、パリ経験者(誰あろう、そのうちの一人はわたしの姉ですが)から、犬のフンが路上に放置されていて臭いが…とか、思ったよりも綺麗じゃない、などと聞かされ、つまりそれほどのところでもないのかな、と漠然と思っていたのですが、初めて行ってみて、その町並みの美しさや、ラテン的いいかげんさも含めた人々の活気と洗練に、なかば圧倒されたのでした。(予告どおり、犬の糞はそこかしこにありました…が)まさに百聞は一見にしかず、なのです。

パリの魅力はそれだけにとどまらず、古いものを大切にするという国民性からか、古書や中古レコード店の多い町でもあるのです(それでもずいぶん数が減ってきてしまいましたが)。市のはずれには、常設のフリーマーケットが2ヶ所あり、新品にしか興味がない、という人々を除けば、1日見て回っても飽きないようなところです。

わたしとは縁遠いのですが、一時、パリといえばブランド品をしこたま仕入れにいくところでもあったようです。ヴァンドーム広場は、その歴史的経緯はともかくとして、現在は高級ブランド店と高級ホテルの立ち並ぶ、パリの別の一面を代表する場所と言えましょう。

ヴァンドーム広場はまた、その一角にかのショパンが住んでいたことでも知られています。日々レコード探しと美術館やら名所を巡っていたわたしも、やはり一度は拝観しておかなければならないところ、というわけです。

夕暮れを予感させる斜めの陽射し、ヨーロッパらしい高い空、散り散りに空を覆う雲、見事なまでの統一感をみせる建物など、思わず「ああ美しい」という言葉が口をついて出てしまうような一瞬です。

 


コンスタンチン・リフシッツ演奏会(ゴルドベルク変奏曲)

明けて12月24日は、ゴルドベルク変奏曲です。

演奏会場は、平均律クラヴィア曲集の武蔵野文化会館(小ホール)から東京文化会館へと、都会へ出てまいりました。客層もカジュアルだった前日とは打って変わり、コンサートホールへ来ているぞ、という雰囲気に満ちています。これは、お隣大ホールで行われているクリスマス恒例(であろう)メサイアの影響もあるのかもしれません。

前日の平均律クラヴィア曲集全曲演奏会については、すでに書いた通りなのですが、ゴルドベルク変奏曲ではまた違った面が出てくるのではないか、との期待もありました。

しかし残念ながら、前日の演奏と大きく異なるようなことはなく、緻密に組み立てられた熱演、という以上の印象を得ることはできませんでした。

わたしが音楽を聴くとき、それがどんなに感心しないもの、突飛なものであっても、すくなくともわたしよりも音楽的経験が豊かで、音楽に対しても真剣である人が、このように弾いているのであるから、何かわたしには計り知れない意図があるのではないか、とまずは演奏よりも自分を疑って考えるのですが……リフシッツの意図はどうもわたしには分かりかねたようです。

コンサートの後、同行した方々とお店で軽くワインなどを飲みながら(当然私は水なのですが)雑談などしたのですが、ひとしきり誰のゴルドベルクが良いかなどと話した後、「ソコロフのゴルドベルクを聴こう」ということになりました。このとき、同行した方々も、リフシッツの演奏から私と同じような印象を得たのだということが、なにとはなしに分かったのでした。

 


コンスタンチン・リフシッツ演奏会(平均律クラヴィア曲集)

先日、賛否の声渦巻くペーター・コンヴィチュニー演出の「サロメ」を聴いてきたのですが、その感想はさておき、昨年のコンサート記を続けることにします。

ようやくと年末に近づいてきて、12月23日、24日のコンスタンチン・リフシッツ演奏会です。リフシッツは23日に平均律クラヴィア曲集全曲を、24日にゴルドベルク変奏曲を弾くという、なんとも大胆な選曲、かつ日程です。巷は気もそぞろの12月24日にゴルドベルクを聴くというのも、なんともはや…。

ゴルドベルク変奏曲は、私のもっとも好きなピアノ曲の一つなのですが、今を去ること20年ほど前にニコライエワの演奏を聴いて以来、演奏会ではなかなか聴く機会のなかった曲でもあります。数年前のコロリョフの演奏会なども食指を動かされたのですが結局忘失してしまい、後で聞けばそれほどでもなかったとのこと。なかなか縁に恵まれないのです。

リフシッツについては名前を知っている程度だったのですが、平均律とゴルドベルクを連日演奏すると聴いて、つい触手が動いてしまったのです。

平均律については、全曲を演奏会で聴いたことは一度もなく、最近でこそ、ポリーニやシフが俎上に乗せてはいますが、実際演奏会へかけられることもそれほど多くはないのではないでしょうか。リフシッツは、全曲を1日で演奏してしまおうということで、前半に24曲、後半に24曲、間に数時間のインターバルが開くため、ほぼ半日がかりという、まるでマラソンのようなコンサートです。

肝心の演奏ですが、まずつまずきそうになったのがその配曲です。前半24曲というのは、実は第1巻の1番、第2巻の1番、第1巻の2番…というように、2巻を交互に弾き、12番までを弾いたのです(もちろん演奏会前から分かっていたことではありますが)

普段レコードでは、全曲を聴くにしても、抜粋を聴くにしても、たいてい1巻と2巻は分かれており、またこれは勝手な思い込みかもしれませんが、第1巻の24曲、第2巻の24曲というものは、24曲で一つの組曲のように構成されているように感じるのです。ことに第1巻でハ長調の前奏曲から始まり、ロ短調の壮大なフーガで終わるさまは、調性という宇宙を描いた壮大な絵画であるようにすら思えるのです(第2巻に関しては、もう少しカジュアルな、あるいはロマンティックな雰囲気を感じるのですが)

さて、その第1巻と2巻とが混ざって出てくるわけですから、聴く方としてはいまいち調子が出ないのです。とはいえ演奏は、美しい音色、ほぼ完璧にコントロールされた打鍵、さらには暗譜での演奏など、こと演奏技術に関しては(あくまで素人の私が見る限り)非の打ち所が無いといってよいような演奏でした。

しかし、その完璧な演奏から生み出される音楽には何かが足りないのです。いや足りないのではなく立派すぎたのかもしれません。バッハの楽譜を設計図とした建造物を、大聖堂のように、あるいは細密画のように、いささかの狂いもなく緻密に作り込んでいるように感じられたのです。しかし困ったことに音楽は大聖堂でもなければ、細密画でもありません。常にゆらぎ、うつろい、現れては消えていく蜃気楼のようなものです。そのゆらぎや頼りなさを確固たる形あるものとして表されてしまうと、それは音楽のようであって音楽とは異なものとなってしまうように思えてならないのです。

大気中をたゆたうような一見捉えどころのない音楽作品を、一瞬の閃きでつかみ取り、音とするのが演奏家という芸術家の使命でもあるでしょう。しかしリフシッツの演奏は、漂う音楽を捉えることをあきらめ、音楽の外観、表面を緻密に、しかしまるで形骸のように、再現するという道を選んだように思えてなりません。

誤解のないように書いておきますと、リフシッツのピアニストとしての技術的側面は、大変に高度なものであることは間違いありません。しかし残念ながらその技術によって生み出された音楽には、音楽の持つゆらぎ、息遣いといったものが希薄であったように私は感じたのでした。

とはいえ、第1巻ロ短調のフーガなどは実に美しく、聴き入ってしまったのですが、その後に第2巻の前奏曲が出てくるのですから……最期まで調子の狂わされた演奏会でした。

 


ガレリア(ミラノ) [News写真2005年4月]

前回に引き続き、気温38度のイタリアです。

ミラノはローマに次ぐ第2の都市だけあって、ヴァカンスシーズンかつ猛暑であったにも関わらず、夕闇迫るガレリア周辺には、観光する人、買い物を楽しむ人、それに夕涼みをする人などがそぞろ歩いていました。

ガレリアはドーム型のガラス天井を中心として道が十字に伸びた巨大アーケードで、十字の道はミラノの象徴、ドゥオモやオペラの殿堂、スカラ座などへとつながっています。その壮大な外観はミラノの中心と呼ぶにふさわしい威容と美観を誇っています。

ドーム天井の直下には牛の描かれたタイルがあり、この上で一回転すると何やら幸運が舞い込むらしいのですが、それがどのような幸運なのかは実はミラノっ子も知らないのだそうです。もちろん正しい観光客である私も一回転。

ガレリアには、楽譜で有名なRicordiをはじめとして多くの高級ブランドが店舗を構えています。これは同じようなガレリアのあるナポリの下町風情とはずいぶんと異なっています。2つのガレリアを比べてみると、色々な意味でイタリアの北と南の違いを反映しているようにも思えます。

ここ、ミラノのガレリアにはベンヤミンの言う「幻灯(ファンタスマゴリ)の映しだす資本主義の幻想空間」が正しく残されているのかもしれません。


ワレリー・アファナシェフ演奏会

今年もはや一月が過ぎてしまいましたが、去年11月のコンサート回想が未だに終わっていません。困ったものです。コンサート第2弾は、鬼才アファナシェフです。この鬼才という言葉もどうかとは思いますが。

アファナシェフは一寸グールドと似たところがあって、いわゆるクラシック畑ではない知識人の間で話題となり、そこから本来のクラシック畑の聴衆ではない人々も含めて評判となった演奏家ではないかと思います。

たしかにグールドのときには、本人も含めたあれやこれやの論文で「なるほどそんな聴き方もあるものか」と思ったものですが、私も年を重ねひねくれものになったのか、同じような現象が再び起こると「ああ、またか」となってしまいます。

それというのも、グールドを聴く人、絶賛する人の多くは、グールドの弾くバッハなりモーツァルトは聴いても、バッハやモーツァルトという作曲家、あるいは他の演奏家にはほとんど興味を示さないからです。私に人の聴き方をどうこう言う権利はまったくないのですが、バッハやモーツァルト、シューベルトは媒介に過ぎず、グールドやアファナシェフを聴いているという現象には、何か違和感を感じてしまうのです。

そもそもなぜ知識人先生がそんなに特定の演奏家ばかりに難しい言葉や論理を労して肩入れするのかというのも不思議な話です。好きな演奏家であれば一人密やかに楽しんでいればよいだけなのに。

そんなことから、「ああ、またか」と来日はすれど聴きにいくことのなかったアファナシェフですが(もちろん数少ないレコードやCDでは聴いていて、私の中での位置はそれなりに決まっていたのですが)、またまた友人に誘われまして、好き嫌いはどうあれ、一度は聴いてみないといけないと思い、聴きにいくことになったのです。

そのアファナシェフはのっけから個性的な登場をしてきて少なからず驚きました。また、指先を反らすようにして弾くその様は、さながら魔女が呪術をかけているかの如きで、観るという意味では非常に面白いピアニストだと思います(ただ、私は目から映像が入ると音が変わって聴こえてしまうので、演奏会では極力目を閉じて聴いているのですが)

その風貌とも相まってこれは相当風変わりな音楽が出てくるのかと思いきや、出てきた音楽は思いの他真っ当で再び驚きました。もちろんテンポの速い、遅いでいえば、かなり遅い部類にはなるのでしょうが、その音や和声の感覚は、かなり正確かつ確信犯的にバランスの良い響きを目指しているように感じられ、異常感覚や侘び寂びというよりも、古典的均整を保って、どちらかといえば肯定的な響きすら持っているように感じました。

しかし、お花畑に蝶々が飛んでいるような紋切り型のイメージではなく、表面的なほがらかさの裏に隠された、暗く陰鬱なロマン的感情、一筋縄ではいかないシューベルトの音楽というものを聴いてみたいという欲求からすると、若干健康的過ぎる嫌いがあったのもまた事実です。

もっと平たく言ってしまえば、ソフロニツキーやユーディナ、リヒテル(あるいはエドゥアルド・エルドマンでも良いですが)で感じたような衝撃、驚きといったものを感じるまでには至らなかったということでしょうか。

むしろ感銘を受けたのは、ほとんど計算されつくしたかのような音楽の古典的均整と、個性的な奏法(ホロヴィッツかグールドかというような)でありながら、強烈な打鍵にもほとんど音を濁らせない技術で、ロシア・ピアニズムの技術的側面を十二分に感じることができました。

好き勝手なことを書き連ねてしまいましたが、実のところアファナシェフは侘び寂びや「もののあはれ」などというものはとうに通り過ぎ、古典的均整の中に新たな境地を見出していたのかもしれません。


エスプレッソマシンのスチームアーム交換

CLASSICUSでは、主には私が飲むために(いえ、もちろんお客様にもお出しします)エスプレッソ・マシンを置いています。Gaggia社のTebeというマシンで、オ・ソレ・ミオの国イタリア製ですから大変に美味しいエスプレッソが出来るのです。

このマシンはそこそこ高級機ということもあって、当然ながらカプチーノのミルク泡立て用のスチーマーがついているのですが、このスチームノズルには初心者でも泡立てやすいようにパナレロというプラスチック部品がついています。しかし、一度キャプチーノ(と玄人ぶってみる)をいれると、このパナレロとノズルには牛乳のカスがビッシリとついてしまい、その度に掃除するのが(ましてやたんぱく質ですから)結構面倒だったりします。また、パナレロ付きノズルを使うと、大したコツもいらずに泡立つ代わりに、かなり大ざっぱな泡立ちとなってしまいます。

そこで、掃除の利便性(金属ノズルだけだったら、泡立て直後に濡れふきんなどで拭けばほぼOK)と泡立ちの細かさを求め、パナレロ無しでカプチーノすることにしたのでした。結果、ちょっとしたコツは要ったものの、なかなかどうしてキメ細やかな泡立ちを実現することが出来て満足だったのです。しかし、ノズルの途中で自己主張しているパナレロ取り付け部分が、不必要なだけに気になりだしました。

そんな時に見つけたのが(通販番組みたいですが)ここのページ中ほどにある、Rancilio Silvia用のスチームアームとアダプターです。早速注文したところ、すぐさま送られてきました。

取り付けて使ってみると、使い勝手そのものはGaggiaのパナレロ無しと大差ありませんが、見た目はかなりグレードアップした感じです。ただ、アダプターを介してやや無理やり取り付けているためか、アダプターの隙間から少し水(お湯)漏れします。また、大きなナットも美観的にはなんとかしたいところです。

そこで、純正のアームとRancilioのアームをあれこれと見比べてみたところ、アームの太さや、ストッパーの形状はほぼ同一で、ナットの形状だけが大幅に違うことがわかりました。ということは、GaggiaのナットでRancilioのアームを取り付けることができるのではないか? という悪魔の囁きが聞こえてきました。

Gaggiaのアームは構造上ナットが外れないようになっていますから、この作業を始めてしまうと後戻りはできません。しかし、ここまで考えたからには実行あるのみ。

まずは、Gaggiaのアームを力ずくで折ってナットを取り出します。プライヤーで握って何度か曲げ伸ばしをすると、ポキっと折れます(かなり猟奇的な壊し方になってしまいました)

外したナットは、Rancilioのアームへすんなり入りましたので(実は折り曲げ部分に引っかからないかどうかが一番心配だったのです)、あとは取り付ければ一丁上がりです。

まるで純正のスチームアームのように美しく付いています。満足満足。

特典として、このアームにはいろいろと楽しい部品が用意されていて、これこれなんかが気になっています。

なお、Rancilio Silviaの古い方のアーム(多分Version1や2というもの)でないとこの方法は使えないようです。アタッチメントを購入する必要がなくなりますので、Gaggiaのアームを犠牲にする覚悟がある方にはおすすめです。おそらく、古いClassicやBabyでもできるのではないでしょうか。


シニョーリ広場(ヴィツェンツァ) [News写真2005年3月]

イタリアに限らずラテンの国々(主にフランスとイタリア)は、真面目一方な我々日本人には考えられないほどの長い夏休み、すなわちヴァカンスを取ります。極端な例だと7月の初めから8月の終わり頃までヴァカンスを取るお店もあります。

とはいえ、ラテンの国々も「このままではいかん」と思ったのか、ヴァカンスは短く、食事の時間も短く、食事のカロリーは低くなる傾向にあるようです。

このときは、スイスから北イタリアを回ったのですが、時まさに8月というわけで、イタリアはどこの町もかしこの町も水を打ったような静けさ、「地球最後の男」になったかと思うほどです。

しかも、このときのヨーロッパには、余りエアコンが普及していないフランスで老人の死者がたくさん出たというとんでもない熱波が襲来しているところで、スイスからコモ湖を越えて夜9時頃にミラノに到着したとき、見かけた温度計に38度という数字が煌々と輝いていたのを、今でもよく覚えています。

ヴィツェンツァの中心、シニョーリ広場もお昼だというのにまさに人っ子一人いない状態、むなしく太陽だけが気温をぐんぐんと上げ続けていたのでした。

それにしてもイタリアの古い町の美しさといったら……日本人として彼我の美意識の違いを痛感してしまいます。


三宅麻美ベートーヴェン・ツィクルス

今年もあっという間に暮れとなってしまいました。もしかすると、光陰の矢に乗っかってしまっているのでしょうか。

10月から12月にかけては、個人的なことでドタバタとしていた上に、前々からチケットを買っていたコンサートがずいぶんと重なってテンヤワンヤしてしまいました。いまさらですが、いくつかのコンサートの感想などを書いてみたいと思います。

まずは11月に行われた三宅麻美さんの「ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 全曲演奏会 第1回」です。

三宅麻美さんは、以前にピアニストの友人から紹介されたのですが、話してみると、なんとショスタコーヴィチがお好きであるという。とりわけ弦楽四重奏の15番やヴァイオリン・ソナタ、ヴィオラ・ソナタがお好きでらっしゃるという。しかも前奏曲とフーガ全曲を日本人として初めて録音されたのだそうで、これはもう完全に私の好みと一致してしまっている変態、いや、素晴らしい感性をお持ちの方なので、すっかり話がはずんでしまいました。

そういえば、この春には三宅さんと荒井英治さんによるショスタコーヴィチのヴァイオリン・ソナタ他を聴いたのですが、演奏が音楽に解けこんでいくような素晴らしい演奏で、なんというか、久しぶりにショスタコーヴィチらしいショスタコーヴィチを聴いたような気がしたのでした(レコードも含めてです)

そんな三宅さんがベートーヴェンを全曲演奏されるというのですから、これは聴き逃すわけにはまいりません。

ベートーヴェンというのは、戦後の日本でもっとも聴かれてきた作曲家であろうと思うのですが、経済成長が怪しくなりはじめた頃から、マーラーだブルックナーだショスタコーヴィチだと言われはじめ、ベートーヴェンのような前向きで力強い音楽というものが、やや飽きられたというか、多様性の波にのまれてしまったような状況なのではないかと思います。

しかし、ずいぶんと音楽のつまみ食いをしてきた現在の私にとっても、最後の最後にたどり着く作曲家は(もちろんシェーンベルクであるとかショスタコーヴィチが好きであることには変わりはないのですが)バッハかベートーヴェンではないかと感じてしまうのです。特に私の好きなベートーヴェン後期の作品は、幾度となく聴いても常に新たな発見があり、すべてを内包し、ついに音楽の真理に達したのではないかと思わせる一方、極めて個人的な感情にもつながっているように思うのです。

今回の演奏会は作品番号以前のものから、1、2、3番というプログラムでしたので、普段後期のソナタばかりを聴いている私は、気楽な気分で聴きに出かけたのですが、ベートーヴェンという作曲家の凄さというものを思い知る羽目となりました。

三宅さんの演奏を聴いていると、ときに「えっ、こんなフレーズがあったの?」と思ったり、「こんな仕掛けがあったのか」と気づく場面に出くわし、ベートーヴェンの革新性と天才はすでに初期の頃からあったことを、あらためて知ったのでした。甘さを廃した演奏は、ベートーヴェンの旋律の美しさを浮き立たせるに余りあるものでした。ベートーヴェンの旋律は、甘く流麗に弾いていても、それは結局表面を撫でているだけに過ぎず、決して彼の音楽の本質にはたどり着けないのではないかと思います。

本当は一飛びに後期のソナタが聴きたいのは山々なのですが、三宅さんのツィクルスを順を追って聴いていくうちに、次々と新たな発見に出会えそうな予感がしています。


ウェブページのスタイルシート化

ウェブ関係の勉強をちょっと怠けている間に、どうやら世間では、ウェブデザインにhtmlを使うのはもはや古く(というよりも使用を推奨しないらしい)、スタイルシートを使うのが主流らしいのです。今さらウェブ製作のもう一方の雄であるFlashを勉強するのも馬鹿々々しいですし、そもそもしがないレコード屋さんのウェブページにハリウッドさながらの演出は必要ないのではないかと思う今日この頃。

そこで、泥縄式にスタイルシートを勉強しながら少しづつCLASSICUSのページをスタイルシート化していたのですが、<p>や<br>、<table>などで埋め尽くされたソースをCSS化するのは、意外になほど手間がかかります。

また、以前はメニューを選択したときの文字の色の変更を、JavaScriptの画像の入れ替えで行っていたのですが、これもスタイルシートで実現できることが分かったため、かなり苦労しながらもスタイルシート化しました。

catalogページの画像の入れ替えは、スタイルシートよりもJavaScriptの方が良さそうでしたので、せっかくJavaならばと、これもにわか勉強したフェードイン・アウトを入れて、ちょっとFlash風にしてみました。

ついでに悪乗りして、linkページもマウスを乗せるとフェードインするようにしました。しかし、JavaScriptの構造上の問題なのか、フェード中に別のリンクへ移動すると、混乱してややこしい動きになります。もちろん関数は共用なのですが、別のルーチンとして動かないものなのでしょうか。回避方法をご存知の方がいらっしゃましたらご教示下さい。

かなり苦労してスタイルシートに移行しつつあるCLASSICUSページですが、(勉強も含めた)苦労の割には外観はほとんど変わっていないという、なんとも達成感の足りない作業となってしまいました。


ピエロ・リュネール

《月に憑かれたピエロ》。なんと想像力を湧き立たせる名前でしょう。レコードを選ぶとき、一丁前に「このジャケットで演奏の悪いはずがない」と宣ったりいたしますが、その体でいくなら「この題名で曲の悪いはずがない」です。

事実、そんな題名から入ったわたしも、いつの間にやら《ピエロ》からシェーンベルクへのめり込み、ベルク、ウェーベルンとお決まりの道筋を辿ったのでした。しかし、未だに《ピエロ》は格別好きな作品で、機会あらば聴くようにしているのです。

さて、その聴く機会が思いもかけぬ形で訪れました。桐朋音大の学生さんたちが学園祭で演奏するというのです。幸いご近所であることもあり、早速お邪魔してきました。

プログラムは、シェーンベルク論、作品解説、全訳詩と盛りだくさんで、天井にはプロジェクターで訳詩が投影されるという仕掛けもあり、この演奏への意気込みが大いに感じられました。

演奏について古今の名演と比べるのは意味のないことですが、プログラムの意気込みそのままに、作品に近づこうという気持ちの感じられた演奏でした。歌手の声の質も曲想に合っていたように思います。目を閉じて聴いているうちに、いつしか《ピエロ》の世界を垣間見ることができました。

このような難曲(技術の面だけにとどまらず)を学生さんが演奏するのですから、日本の音楽水準の高さには感心するばかりです。大胆な挑戦を果した学生諸氏に心からの拍手を送りたいと思います。