【本の街】No. 6 レコード無駄話うらおもて

「ブラッサンスが唄った珍盤が最近パリで発売された」と言ってエイプリルフールに訪ねてきた友人に一杯喰わされる話で始まるのは、塚本邦夫の名著『薔薇色のゴリラ──名作シャンソン百花譜』でしたが、コレクターの話は、とかく珍盤、希少盤に止まらず、レコードにまつわる有りもしない話にまで発展することしばしばです。

昔の話であることをいいことに、怪しげな話がまかり通り、ときによっては尾鰭がついて広まっていくのですから手に負えません。もっとも、お客さまからこのような話を聞くことができるのもレコード店主の役得の一つかもしれません。

さて、バッハの《マタイ受難曲》は言わずもがなの名曲ですが、その全曲録音の中でも吉田秀和氏をして「このペテロの否認の部分で泣かない者は音楽を聴く必要がない人である」と言わしめ「決定盤」の地位を不動のものとしているのがカール・リヒターによる1958年のArchive録音です。

そのリヒターが師事したかつての聖トマス教会のカントール、ギュンター・ラミンに全曲録音が残っていないことは、東ドイツのEternaレーベルから発売された17cm盤2枚(520090/91)というわずかな録音が素晴らしいだけに一層残念に思われます。

──もっともラミンは、1941年という困難な時期にSP盤16枚にも及ぶ全曲に近い録音を残してはいるのですが、ナチスの検閲に遭い、反戦的言辞などを中心に全体の3分の1にまで及ぶカットを余儀なくされているのです。──

一方戦後のLP録音は、西側のドイツ・グラモフォンと東側のドイツ・シャルプラッテンとの共同製作によるもので、全曲の録音を目指し1955年の暮れからライプツィヒで録音が始められました。しかし、翌年2月に予定されていた第2回収録の直前にラミンが急逝し、計画は頓挫してしまったということです。

この辺りのいきさつについては、後に再発されたEternaの30cm盤(820390)のライナーノートに詳しいのですが、想像力たくましいI氏は、この先のことをもっともらしく推論され、大変面白いものでしたので以下に紹介させていただきます。

──「1955年と言えば西ドイツ、ミュンヘン・バッハ管弦楽団が設立された年です。しかしEterna/Archiveの録音スタッフは設立間もないリヒターのミュンヘン・バッハを起用せず、敢えて当時東ドイツに居たラミン
に全曲録音を託したのではないでしょうか? しかし不幸にして全曲録音の夢は叶いませんでした。数年後、Archive はラミンの録音のときに指名したソロ歌手、ゼーフリートとテッパーを再度起用し、カール・リヒターの下、全曲録音を完成させます。しかし、もしラミンがもう少し生きていたなら、当然ラミンの全曲盤が完成して、リヒターの『決定盤』はあるいは生まれていなかったのかもしれませんね。」──とI氏は私の方を見ながら片目をつぶるのでした。

〔本の街 2003年5月 掲載〕