【Music Bird】聴き比べの楽しみ──芸術の質

クラシック音楽鑑賞の醍醐昧の一つとして、全く同一の曲を異なった演奏で聴き比べることができる点があります。ベートーヴェンのピアノ・ソナタや交響曲など、いったいどれだけの録音が残されているのか、今となってはその数を数えるだけでも一仕事となってしまいます。

クラシックは多くの場合基となる楽譜があり、その楽譜から外れて演奏するということはほとんどありません(もちろん例外的に演奏家による編曲、楽譜が原典版であるか否か、など細かい相違はあるのですが)。ところがクラシック以外の音楽となると、楽譜そのものが無かったり、たとえ楽譜があったとしても全く同じように演奏するということは稀なことであり、クラシックの聴き比べのようなことはほとんど考えられないのではないでしょうか。

敢えて他の芸術に似たような例を探すと、能や歌舞伎、あるいは正教のイコン画のように一定の型が決まっているようなものが考えられるでしょうか。これらはいずれも「古典」と呼ばれるものである点で不思議な一致がみられます。

同じ楽譜でありながら、テンポの違い、音の強弱、ペダルの踏み方、ポルタメント、スラーの解釈など、演奏家によってさまざまな違いがあり、それらの細かな違いから「この演奏はロマン的な解釈である」「この演奏こそが正統な解釈である」などと侃々誇々できるのは、クラシック愛好家の一つの特権であるのかもしれません。しかもさまざまな演奏解釈が正統を競った挙句に、(昔の作曲家であれば)誰も聴いたことのない作曲家自身による最も正統的な演奏、というものまで仮想的には存在するのですから、議論はいきおい紛糾することにもなるでしょう。

ところで、聴き比べの話を聞いていていつも気にかかるのが演奏に上下を付けたがることです。以前にも書いたように、演奏すること、その演奏を聴くということは、ほぽ完全に主観的な行為ですから、これに順位を付け、さらにはその順位を他人と共有しようという企ては非常に危険かつ報われないことであるように思われます。音を間違えたとか、録音が良くないとか、およそ芸術とは関係ない部分にわずかな客観性が残されているのかもしれませんが。

同じように、演奏の好き嫌いと、その演奏の質そのものの混同も少なからず見受けることがあります。「この演奏のこの部分が嫌いであるから、この演奏は良くない演奏である」という意見は、音楽の重要な部分を見落としています。嫌いな演奏であっても質──この場合私が考えているのは芸術的な面における質──の高いものは存在するでしょう。また、およそ芸術的にはまだ未成熟である近所の子供の演奏が好きということも当然に起こりえることでしょう。

演奏を聴く上で好き嫌いをはっきりとするということ主観的になることは重要なことですが、同時に芸術的な質──これ自体も主観的であるが故に問題はより一層困難になるのですが──という別の尺度も考慮されなければならないと思うのです。

とはいえ繰り返しになってしまいますが、このような聴き比べができるのはクラシック愛好家ならではの特権であることは間違いのないことです。せっかくの権利なのですから大いに楽しみ、謳歌し、時には難しい議論などを戦わせてみたいものです。

〔Music Bird プログラムガイド 2010年2月 掲載〕
写真:あれこれと悩むのも聴き比べの楽しみ。