現代に生きる我々に、数値はなくてはならないものになっています。東京駅から御茶ノ水まで電車で何分、距離は何km、運賃は何円、今日の温度、湿度、果ては摂取カロリー、株価、と生活に関わる全てのものが数値で表されています。
ところで西洋音楽の世界では、遥か昔から楽譜というものの発明によって音楽を数値化することに成功していました。西洋の音楽は、音を数値化する楽譜というものによって飛躍的に発展したといえるでしょう。楽譜が発明されるまでは、ある曲は作曲家が演奏者でもあり、しかもその人が生きている間(厳密に考えれば演奏に足る能力がある間)
西洋以外では(おそらく西洋の一部でも)
しかし、楽譜という数値は、音楽を完全に再現させるという意味ではまだ不完全でした。同じ楽譜を元にした演奏でも一つとして同じ演奏は存在しません。また、作曲した側の思い描いた音楽と、演奏する側の思い描いた音楽は、必ずしも、というよりも、まず一致はしないでしょう──ただ作曲者自身が演奏した場合を除いては。
ところが、私はこの楽譜という不完全な数値化こそが西洋音楽発展の大きな秘密だったのではないかと考えています。不完全さ故にこそそれを表現する演奏芸術が大きく発展し、作曲家の不完全さを補う力、あるいは芸術をより完全なものへ近づけるための力となったのではないかと感じています。演奏家は作曲家すら気が付かなかった可能性を提示することすら可能となったのです。
科学の発展によって数値が達用される範囲は飛躍的に増えていくと共に、数値はあらゆるものにますます大きく影響を与え続けています。現在でもミクロ、ナノ、とあらゆるものが分解、分析されていきます。最終的に人はあらゆるものを数値で表してしまうのかもしれません。
しかし、楽譜の不完全さと同じように、どこまで分解しても音楽には数値化不可能な部分があり、その部分こそが音楽の不可思議な魅力の源泉なのではないでしょうか。そして、楽譜や時間も含め、身の回りの数値のことなど思い浮かばぬほど音楽に没入できたときこの源泉に触れているときなのではないでしょうか。