【Music Bird】晩年のスタイルに関する考察(の模傲)

演奏家は音楽を表現するために、芸術的な表現力だけではなく、楽器を操るために相当に高度な技術・技能を必要とします。楽器演奏を習ったことのある方であれば、その技術を得る事がいかに難しいことであるか、よくご存知ではないかと思います。

いかに芸術的素養があり、表現する意欲があったとしても、それを表現するための技術が無ければ、音楽を芸術として表現することができない。

技術と芸術性は音楽にとって車の両輪のようなものであるといえます。しかし、技術を常に十全に保っていくことは難しく、また老いによる衰えといったものを無視することはできません。年を重ね、音楽についてより深く、より多くの理解を得るようになった頃には、それを表現する技術が衰えてしまうという皮肉が起こり得るのです。そこが芸術の難しさであり、不思議であり、アイロニカルなところです。

「技術的衰えは隠せないがその表現は枯淡の境地で……」というような慣用句の使われる演奏は数多くあります。しかし最近私は、果してこのような演奏が本当に技術の衰えだけから来るものなのか疑問を感じるようになっています。

たとえばジョルジュ・エネスコによるバッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》は、かねてからその音程の不安定さが議論の的となっていた録音で「至高の芸術である」というものから「聴く価値すらない」といったものまで、実に多様な感想を聞くことができます。また、ロシアのピアニスト、ゲンリヒ・ネイガウスの晩年の演奏会録音を聴くと、ショパンのロンドの音の多いパッセージを、音が外れてもまるで紙をくしゃくしゃと丸めてしまうようにして、興のおもむくままのフレーズとして表現してしまいます。

このような演奏は、たしかに一聴すると技術の衰えや老いにかこつけた手抜きのようにも思えるのですが、何度もそれらを聴いているうちに、そのような表現はわざと──確信犯的に行っているようにも聴こえるのです。あるいは、仮にそれが技術的な問題であったとしても、あえてその問題を修正する必要性を感じてないかのように、です。エネスコあるいはネイガウスにとって音程や音が外れることは、彼らの表現しようとしている音楽にとってそれほど大した問題ではないとでも言わんばかりです。そして、確かに彼らの音楽は音程の不安定さなどが気にかかることはほとんど──全く無く、ただバッハ、あるいはショパンの音楽のみを感じることができるのです。

これを老境の味わいというには余りに短絡的ですが、円熟、あるいは老境を迎えるにつれ、演奏家の技術的側面に対する拘りというものは、あきらかに退行していく傾向にあるようです。

ではなぜ、若い演奏家はそのような演奏をしないのか、本当に確信犯なのか、楽譜通り演奏しないのであれば楽譜の意義は……この種の疑問は数限りなくありますが、聴いている音楽に演奏家や作曲家、あるいは芸術を感じている限りにおいて、あえてその答えを求める必要はないのかもしれません。

芸術家は、もはや、傲慢さとも尊大さとも緑を切り、
そのあやまちを恥することもなく、いわんや老齢と追放の身の帰結として
得られた控えめな確信めいたものを恥することもないのである
──エドワード・サイード『晩年のスタイルに関する考察』より

〔Music Bird プログラムガイド 2009年6月 掲載〕
写真:晩年のエネスコとネイガウス。