【Music Bird】正反対のアッチェレランド

音楽の楽譜を見ると、音の長さや高さを表す音符の他にもさまざまな記号、標語が用いられていることが分かります。

バッハの時代の楽譜は、最小限の音楽記号と音符やスラーなど、音程と音の長さだけを記録したようなものでしたが、時代を下るにつれ、さまざまな記号、標語が用いられるようになりました。これは、作曲家が意思をできるだけ忠実に演奏者に伝えたいという欲求と、楽譜によって音楽が一般に急速に普及したためにより細かな指示が必要になってきたという事情があったのではないかと思います。

これらの音楽標語は大きく分けると、クレシェンドやマルカートなど音の強弱を表すもの、アパッショナートやコン・ブリオ、工スプレッシーヴオなど表情感情を表すもの、レガート、マルカート、フェルマータなど演奏方法を指示するものなどに分けられます。

わたしのような音楽素人は、楽譜を読むとなると音の長さや音程を追うのが関の山ですが、実際に楽譜を読むという行為は、これらの記号や標語(あるいは音符でさえ)が何のために書き込まれているのか、作曲家は何故そこにその標語を用いたのか、ということを追求していくことであるといえるでしょう。

たとえばフェルマータという記号は延音記号と呼ばれその記号の付いた音を延ばすのですが、延ばす長さに決まりはなく、その長さは演奏者に委ねられます。この最も典型的な例が、ベートーヴェンの第5交響曲の「運命の動機」です。いわゆるジャジャジャジャーンのジャーンの部分にフェルマー夕が用いられているのです。

ただ音を長くしたいのであれば長い音符を書き込めば済むところをフェルマータにすることによって、後世にさまざまな議論を残すことになります。しかも1度目のジャーンと2度目のジャーンでは音符の長さそのものも違うほか、直後に置かれた休符にはフェルマータが書かれていないため、音符と休符、1度目と2度目をどのように、どれだけ伸ばすのかという問題は演奏家にとって悩みの種であると同時に自らの《運命》解釈を表明する場ともなっているのです。

もし、このような議論、さまざまな解釈を見越してこのフェルマー夕記号を用いたのであったとしたら──そしておそらくそうであったと思いますが──ベートーヴェンはまさに天オであったと言えます。

ところで、標語の一つに、テンポを次第に速くという意味を持つアッチェレランド──あるいはアッチェランド──というものがあります。この標語は楽譜に指示されていないことも多いのですが、華々しく終わる交響曲のコーダ(終結部)などで好んで用いられる演奏法です。先ほどの《運命》交響曲の3楽章から4楽章へとアタッカでなだれ込む部分などでもほとんどの指揮者がアッチェレランドをかけています。

このアッチェレランドで有名なのはやはり指揮者フルトヴェングラーでしょう。殊に有名なのが、「バイロイトの第九」のコーダにおける激しいアッチェレランドです。ここを聴きたいがためにあの長大な交響曲を聴くという人物を私は何人か知っています。

書いていて、これとは全く正反対のアッチェレランドを思い出しました。それはダリウス・ミヨーの《屋根の上の牡牛》です。この曲はブラジル大使となったポール・クローデルの鞄持ちとしてブラジルに渡ったミヨーが、カーニバルに触発されてその情景を描いたもので、ラテンのリズムに乗って同じ旋律が形を変えながら反復されていく様は、さながらラヴェルの《ボレロ》のようです。

むせ返るようなリズムの反復、カーニバルの陽気な祝祭、終わることのない乱痴気騒ぎは少しの静寂の後、元のお祭り騒ぎが戻ってきてアッチェレランドと共に終結を迎えます。第九の信大な勝利との余りの落差。同じアッチェレランドが全く異なる音楽に全く違った表情を与えるところに、少しのおかしさと音楽の奥深さを感じます。

〔Music Bird プログラムガイド 2009年3月 掲載〕
写真:作曲者自演による《屋根の上の牡牛》。コクトーによるジャケットが美しい。