ここのところすっかり秋めいてきて、ふと気付くともう年末の足音が近づいてきてしまいました。
日本の年末の音楽というと、なにはおいてもベートーヴェンの《第九》となるのではないでしょうか。もちろん《第九》は稀有の名曲ですから、毎年のように聴くことができるのは喜ばしいことですが、「毎年」や「恒例」などと言われ、どこへ行っても「歓喜の主題」が聴こえてくるようになると、いささか食傷気味にもなってしまいます。
たしかに日本では、年越しや新年は祝うという雰囲気があるため、《第九》のような華々しい曲が似合うのですが、西洋、特にカトリックの国では新年の祝賀よりもクリスマスの比重がはるかに高く、クリスマスは家族で過こし、祈りを捧げて過こすため、華々しい曲が似つかわしくないという一面があります。
このような背景もあって、クラシック音楽にはクリスマスにまつわる名曲が数多く生み出されました。バッハの《クリスマス・オラトリオ》、ヘンデルの《メサイア》、コレルリの《クリスマス協奏曲》をはじめとして、ドビュッシーの《家なき子のクリスマス》やペンデレツキの《クリスマス交響曲》、変わったところでは、オルフの《クリスマス物語》など、数え上げれば枚挙に暇がありません。
これら「クリスマスの名曲」の中でも、私が毎年のように聴きまた感動を新たにする曲の一つに、オネゲルの《クリスマス・カンタータ》があります。
交響曲《典礼風》で用いた詩篇「深き淵より」の導入によって重苦しく進行するこの曲は、中間部になると突如光が差すようにして少年合唱による賛美歌が現れ、「聖しこの夜」やグローリアの独唱などと呼応しながら輝かしいクライマックスを迎えます。しかし、これらの栄光が一時の夢であったかのように曲は賛美歌の残響を伴いながら静かに閉じられます。ここには、交響曲第2番に見るような輝かしい未来や「典礼風」における確固たる歩みは感じられす、再び生まれでたところへ戻るべき時の来たオネゲルの偽らざる心情が映し出されているように感じられます。事実、この曲はオネゲルの絶筆、すなわち「白鳥の歌」となったのです。
作曲直後に行われたこの曲の初演は聴衆に、また演奏した者にも深い感動を呼び起こしたといいます。
毎年のクリスマス、年の瀬を前にしてこの曲を聴くと──それは決してキリスト教的理解ではないのでしょうけれど──少しばかり敬虔な気持ちが呼び覚まされるのです。