このところ故あって年配のオーディオ屋氏とお付き合いさせていただく機会があり、思いもよらない刺激を受ける日々を過ごしています。
私は決してコンサートホールが嫌いなわけではなく、現役の演奏家を否定しているわけでもないのですが、50年も前の録音に喜びを見出す自分のようなアナクロ人間にとって、音楽鑑賞というとそのほとんどはレコードによるものとなってしまいます。
レコード鑑賞とは、すなわちオーディオ技術であり、電気信号の記録と再生ということになります。ある波形を電気的に記録し、それをまた電気的に再生する。たかだかこれだけのことに、なぜこれほどの差が現れるのか、オーディオとはつくづく不思議なものです。
我々のようなアナクロ人間は、ガラードやトーレンス、EMT(いずれも50年代に作られたプレーヤー・メーカー)
性能は高いはずなのに、なぜこのようなことになってしまうのでしょうか。日本製のさまざまなレコード盤やレコード・プレーヤーと、外国製のそれとを聴き比べた経験から導き出される答えは「製作者が音楽を聴いていない」という一言に尽きます。
音楽を聴いていない? レコードやレコードプレーヤーを作るのに。そんなことがあり得るのでしょうか。たしかに製作者の方々は、作ったレコードやプレーヤーで「音」は聴いたかもしれませんが「音楽」は聴いていなかったのだ、と断言できます。もし音楽を聴いていて、なおあのようなものを作っていたのだとしたら、その製作者は自分の耳の悪さを呪うより他ありません。
音楽を聴いていない、あるいは聴いても分からないということになると、いきおい数値に頼るようになります。非音楽的な響きの数値と睨み合いをし、他のプレーヤーよりも良い数値が出たと喜んでしまうのです。しかも音楽は数値とは縁遠い場所で奏でられているのですから救いがありません。
ところで、これらの言葉はそのまま自分にもはね返ってきます。はたして自分は音楽を聴いているのか! 音楽家が音楽に、一音一音に込めた思いを感じとることができているのか! オーディオ屋氏との交流は、ときに惰性になりがちな「音楽を聴く」という行為を改めて考えさせてくれる得がたい機会でもあったのです。