何を今更と言われそうですが、知人にDVDを借りて『のだめカンタービレ』を立て続けに見てしまいました。細かいことを言い出せばいろいろと文句をつけることもできようというものですが、どのような形にせよ、クラシック音楽、あるいは芸術というものが日本でポピュラリティーを獲得していくのは決して悪いことではないと思います。
たとえ芸術家というものが、一個の選ばれた特異な才能の持ち主だとしても、その才能を認め、支えていくためには文化的な背景が必要です。芸術家をピラミッドの頂点だとすると、文化的背景というピラミッドの底辺が広ければ広いほど、より高く、より多くの才能が生まれる可能性があるといえるでしょう(実際事はそれほど単純な話ではないのでしょうが)
しかし、この文化的背景というものは、芸術家を支えもすれば、逆に阻害もする複雑な存在です。若い芸術家にとって、少しでも将来性が見えてきたり評価が高まると、即座に「成功」という言葉と物質的な誘惑が現れ、時として目標を見失ってしまいます。一方、いかに才能があったとしても、物質面、あるいは精神面での支援がなければなかなか表舞台に立つこともできず、ついには才能そのものをすり減らしてしまうことでしょう。
これが絵画であれば、ゴッホのように作品が残り、後世に評価されるという道も残されていますが、音楽家、特に演奏家は、オ能がありながら埋もれてしまった人を発見するというのは非常に困難です。録音が残されていなければならない上に、それが真の姿を伝えているかをどうかを判別するのは決して簡単な事ではないからです──それも録音が残せるようになったのはここ100年ほどのことなのです。
このようにして考えると、若い音楽家あるいは芸術家にとって、その才能を開花させるために進んでいく道はまさに苦難の道であり、ナイフエッジのように切り立った一本道のようなものであるとすらいえます。名声や物質的誘惑によって道を見失わないようにする一方で、自らが活動する上で不可欠な物質的、精神的なものを、ある時は貪欲に、ある時は巧妙に手にしていかなければならないのです。
20世紀に入って、経済活動や人々の移動が加速していく中で、このナイフエッジはますます鋭利に、高くなっているように感じられます。少しでもバランスを失って足を踏み外せば、芸術はその手の中からこぼれ落ち、芸術という名をまとった名人芸へと身をやつし、二度とその手に戻ってくることはないでしょう。
『のだめカンタービレ』のような作品が、少しでも文化的背景を押し広げ、ナイフエッジを歩きやすくする役割を果してくれるのなら、それは興味深いことではないでしょうか。