ここ数ヶ月、連続して深夜にテレビ放送されていた2006年のザルツブルク音楽祭を何とはなしに見ていたのですが、作られる音楽や歌手の出来はさておき、多少の予備知識があったとはいえ、演出の新奇さには多少の驚きを覚えたものでした。
ザルツブルク音楽祭やバイロイト音楽祭へ行った方のお話を伺っていると、オペラの演出は年々過激で先鋭になっているのだそうです。この傾向はドイツ語圏に顕著で、先日来日したバレンボイムとベルリン•シュターツオパーの《トリスタンとイゾルデ》や《モーゼとアロン》なども、私の周りでの評価は賛否相半ばでした。
このような演出は、ヴィーラント・ワグナーによる「新バイロイト様式」がその端緒であると言われています。当時の大ワグナー指揮者、クナッパーツブッシュが舞台上を見て「舞台が空っぽじゃないか」と言ったのは有名な話です。「新バイロイト様式」はパトリス・シェローによって新たな生命を得て、現在の演出へとつながっていきます。
ザルツブルク音楽祭のモーツァルトのオペラを見ていると、演出の過激さや奇抜さに目を奪われるのは初めのうちであり、ほどなくすると自然に意識は音楽へと移っていることに気が付きます。オペラ音楽は本質的に、演劇という現実のパロディに、さらに音のパロディである音楽を組み合わせるという、二重のパロディ性を持っています。そのため、「新バイロイト様式」が出現するまでは、オペラの持つパロディが些かでも現実感を持つために自然主義的な演出が行われるのが常でした。
しかし、ザルツブルク音楽祭のオペラでは、音楽は逆に、パロディ化された演出を現実的なものへと繋げる唯一の線であるかのように感じられたのです。演出はパロディであると同時に現実の鏡であり、パロディ化されつつある現実を投影しているともいえます。そして、現実がパロディ化していくときに、失われつつある現実を唯一呼び覚ましてくれるのが音楽なのです。
本来パロディであった音楽が現実を投影し、現実はますますパロディ化されていくのです。そして、現実とパロディを繋ぐ音楽の力を試すようにして、演出は過激に振舞っているように思えるのです。