今年の秋は暖かい日が続いていますが、日暮れだけは着実に早くなり秋が深まりつつあります。
一昔前の音楽愛好家諸氏の間では、交響曲、協奏曲、独奏曲と聴いてきて、最後に到達するのが、歌と弦楽四重奏曲である、と言われていたのだそうです。
たしかに、歌は音楽の全くの原初である「歌うこと」であり、弦楽四重奏曲は、余計なものを削ぎ落とした緻密な構成と内的独白という意味でクラシック音楽発展の一つの到達点であると言えます。クラシック音楽を聴き進むうちに、この二つの対極する精華に辿り着くのは、ある意味で必然なのかもしれません。いささかこじつけですが、それは作曲家にも言えることです。例えば、ベートーヴェン最後の作品は《弦楽四重奏曲作品135》であり、様々な革新と実験を繰り返したシェーンベルクの遺作となったのは宗教的な合唱作品でした。
このように充実した実りであり、また華美を廃した枯淡の境地でもある弦楽四重奏曲という分野は、秋に聴くにはまことに相応しい音楽であるように思います。
弦楽四重奏曲を辿るということは、クラシック音楽の歴史を辿ることでもあります。弦楽四重奏曲の原型はバッハ以前から存在し、徐々に発展を続けながらハイドンによって形式として完成され、モーツァルト、ベートーヴェンによってより磨きがかけられました。まさに、ウィーン古典派と言われる作曲家達によって完成された「クラシック=古典」の歴史そのものでもあるのです。
弦楽四重奏曲の最も不可思議であり魅力となっているのは、四人の弦楽器奏者によって奏されるということではないでしょうか。四人による合奏ということは、一人の奏者の気分によってテンポやフレージングを変えることは不可能です。反対に、独奏者や指揮者が、演奏会において何か霊妙な閃きによって、楽譜、あるいは練習からは思いもかけなかった表現が生まれることがあることは容易に想像がつきます。
しかし、四重奏という四人の個性が、仮に一身同体となるまで練習に励んだとして、実際演奏会でそのような閃きが四人に等価に(あるいはアンサンブルに許容される差異の範囲で)
完璧な準備、練習と、芸術の閃き、という相反するとも思えるものが、弦楽四重奏の中には共存しているのです。このことが私を弦楽四重奏へと惹きつけてやまないのです。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番冒頭の永遠に続くかと思われるフーガに耳を傾けていると、そのようなことは全く瑣末事であると思えてくる秋の夜ですが……。