【Music Bird】死からはじまる音楽

今年は「ラ・フォル・ジュルネ」でバッハが取り上げられるなどして、バッハが再び脚光を浴びているようです。わたしも、もう随分と前から毎年4月前後の聖金曜日が近づいてくると、バッハの《マタイ受難曲》を聴き、クリスマスが近づけば、やはりバッハの《クリスマス・オラトリオ》を聴くというのが習慣となっています。

わたしは多くの日本人がそうであるように消極的無宗教者であってキリスト教には全く縁遠い存在なのですが、クラシック音楽、特にバッハに親しむうちに、徐々にキリスト教やその概念になじみが深くなっているようで、聖金曜日が近づいてくると《マタイ受難曲》を聴くというのもそんな影響の現れなのかもしれません。

わたしにとっての《マタイ受難曲》といえば、それはメンゲルベルクの歴史的録音を措いてより他に考えられません。カール・リヒターの打ち立てたモダニズムや、昨今の古楽器的解釈からすると、それはまさにアナクロニズムの見本とされるような演奏であり、録音も今の水準からみると完璧とはほど遠いものですが、それでもなお、わたしはこの演奏より強く心揺さぶられる演奏に未だに出会った事がありません。

この演奏の歴史的な経緯についてはすでに多くが語られていますので、ここで改めて書き連ねるのは愚行ですが、それでもあえて言えば、この演奏は1939年という時とオランダという場所でしか成し得なかったものであるということは間違いないように思います。

奈落へと渦を描きながら落ちていくような二重唱と合唱「かくてわがイエスはいまや捕らわれたり」。「主よ、憐れみ給え」のアルト独唱とツィンメルマンによるヴァイオリン・オブリガート。そこには聴衆の啜り泣きまでがレコードに刻まれており、それはまさに、イスラエルの民のすなわち当時のオランダ、ヨーロッパの人々の悲嘆焦燥、それに悔悟と重なりあって悲痛な響きとなって聴こえてくるのです。

わたしが《マタイ受難曲》を聴き始めた当時は、終曲の「われらは涙流してひざますき」を聴き終わると、死によって全てが終わり、閉じられた、というように感じていたものですが、時を経るにしたがって、それは終わりによる始まり、死による新たな始まりを暗示しているのではないだろうか、と考えるようになってきました。

極論めいてしまいますが、キリスト教自体が、死によってはじまる、全ての終局から生まれる宗教と言えはしないでしょうか。これはわたしのように仏教国で暮らす享楽的無宗教者にはなかなか近づき難い感覚です。

《マタイ受難曲》を聴きぽんやりとそんなこんなを考え、少しながら理解しようと努めながら、今まで聴き親しんでいた曲──クラシック音楽、キリスト教から生まれた音楽──をあらためて聴いてゆくと、そこにはまた、今まで聴いていたものとは違った新たな音、色や物語が感じられるようになってくるのです。

〔Music Bird プログラムガイド 2009年7月 掲載〕