我々はなぜ音楽にこれほど魅せられ感動するのでしょうか。
スイスの言語学者ソシュールは、世界的な文学作品全てに共通する「ある秘密」を発見したと言われていますが、果たして音楽にそのような「ある秘密」が存在するのでしょうか。
このような問いが、「ドミソ」という旋律を使えば必す心に響く、というような簡単な理由で片付けられるのであれば労はないのですが、古くはバロックから現代まで様々な様式や形式をまとってくる音楽は、黙して語らず、最後には心を揺さぶって去ってゆくだけなのです。
誰もが知っている、ベートーヴェンの「歓喜」の主題を聴くとき、私はいつもその旋律の美しさや力強さに圧倒されるのですが、それにも増して驚くのは、この生命力溢れる旋律がたった五つの音による全音階によって作られているということを知る時です。この「驚き」は、感動を与えてくれる音楽全てに共通するものです。
同じベートーヴェンの作品111のソナタの第2楽章で、たった3音からなる下降音形を端緒として胎動を始める音楽が、姿形を変容させながら、最後にもう一度3音の下降音形へと解決されてゆくその美しさを目の当たりとする時、最後にはドの次の音がなぜソである必要があったのか、なぜこのような旋律を書けたのかという驚きだけが残るのです。
アリストテレスは言っています。「驚異すること(thaumazein)
音楽もまた「驚異」、「驚き」に満ちています。ただただ美しいことへの驚き、心を揺さぶる旋律への驚き、突き通すような音を秘めた演奏に対する驚き、そして音楽そのものが存在することへの驚き。繰り返し同じ曲を聴き繰り返し同じ演奏を聴いても、常に新たな驚きが発見されてゆくのです。
この「驚き」が音楽の「ある秘密」であるかどうかはわかりません。面白いことですが、作曲家プロコフィエフはシチェドリンの「作曲の極意は何か」という問いに「いかに聴衆を驚かすかという事だ」と答えたといいます。
ソシュールは「ある秘密」をとある文学者へ伝えたところ、その説は一蹴され、「ある秘密」を公にすることなく失意のうちに亡くなったといわれ、我々が「ある秘密」を知ることは永遠に叶わなくなってしまいました。