【本の街】No. 10 偽名盤の楽しみ(I)──あるいはウラニアのエロイカについて

世の中は数多くの偽名に溢れています。主著を偽名で発表したキルケゴールや、数多くの作品を発表!? している映画監督アラン・スミシー氏などは有名ですが、クラシック・レコードにも少なからず偽名盤と呼ばれるものがあります。

一例を挙げますと、フリッツ・シュライバーという指揮者が、実はかのフルトヴェングラーであったとか無かったとか、イヴォンヌ・ユルトヴァンというヴァイオリニストが有名な閨秀、ローラ・ボベスコであったとか、あるいは、フリッツ・マラショフスキーというヴァイオリニストが、ベルリン・フィルの名コンサートマスター、ゲルハルト・タシュナーであった、というようなものがあります。

上記の例はいずれもLP 初期アメリカでの話で、戦後、ベルリンに駐留していたアメリカ軍の一将兵が、ラジオ放送用テープの複写をアメリカへ持ち帰り、その複写テープを何らかの形で入手したマイナーレーベルがこれらのテープを元にして多くの偽名レコードを製作したのです。

同じようにして、これらの音源を入手していたUraniaという会社は、フルトヴェングラーの録音を、正直にも「フルトヴェングラー指揮」と表記したために、ご本人から訴訟を起こされるという栄誉に浴しています。これが、有名な「ウラニアのエロイカ」です。

ただしUrania 社の名誉のために付け加えておきますと、Uraniaレーベルのほとんどの音源は、正規の手続きを経て入手されたもののようですし、「ウラニアのエロイカ」に象徴されるように、ほとんど全てのレコードは偽名を使わずに発売されました。

──話は逸れますが、ソビエトもアメリカ同様、本国へ莫大な放送用音源を持ち帰り、それらの音源から作られた一連のフルトヴェングラーのレコードは、「メロディアのフルトヴェングラー」として珍重されています。

皮肉なことですが、これらの半ば略奪と言って良いような行為によって、今や文化遺産にも比すべき「メロディアのフルトヴェングラー」や「ウラニアのエロイカ」が残されたのは歴史の皮肉と言わざるを得ません。──

これらの偽名は、レコード会社による、いわば演奏家をないがしろにした偽名工作なわけですが、専属契約を結んでいる演奏家やオーケストラが、他のレーベルへ録音したいがために、あるいは他の理由によって別の名前を名乗るという場合もあります。

プロ・ムジカ・オーケストラや、プロムナード・オーケストラなどという名前は、大抵の場合、実態のあるオーケストラの仮の名前であることが多いようです。これらはいわば演奏家公認の偽名と言えるでしょう。

〔本の街 2004年8月 掲載〕