「ロシアピアニズム」という言葉をご存知でしょうか。明確な定義があるわけではありませんが、ロシアとその周辺諸国の出身で、それらの国で教育を受けたピアニストたちの演奏や教育方法などを総称してそのように呼ばれています。この言葉が日本で広まったのは、そのピアニストたちが魅力的であったことはもちろんですが、今日ご紹介する書籍『ロシアピアニズム』の影響によるところも大きかったのではないかと思います。書籍『ロシアピアニズム』は、1992年に音楽之友社から発売された『ロシア・ピアニズムの系譜』がその初版に当たります。1990年代というと、ちょうどソ連邦が崩壊して少しすつ旧ソ連諸国の実態が明らかになり始めた頃で、名前だけは聞き知っていたようなピアニストの音源や実演に接することができるようになり、このような本の需要は相当にあったと思われるのですが、増刷されることもなく数年後には入手が困難な書籍の一つとなってしましました。
多くの復刊の声に応えるようにして、今年発売されたのが、増補改定版であるこの『ロシアピアニズム』です。内容はほぼ初版に拠っていますが、再版されるまでの10数年の空白を埋めるべく、新たに一章が付け加えられ、初版には掲載されていなかったピアニストのレコード一覧が加えられました。
この「ロシアピアニズム』が、ヤングトゥリープレスという出版社から再版されるに至ったきっかけが面白いので、ここに少し紹介させていただきます。
数年前ふとした事からレコードの再生装置を入手した、ヤングトゥリープレスの代表、若木さんが、再生するために選んだ一枚のレコードが、ゲンリヒ・ネイガウスというロシアのピアニストのものでした。若木さんはこのレコード1枚だけを三ヶ月聴き続けたほど、その音楽に衝撃を受けたのだそうです。
このネイガウスのレコードは、モノラル録音でもありクラシックの音源としては決して音が良いものではなく、演奏にもミスタッチが散見されたりするようなものなのですが、そこから聴こえてくる音楽は、それらの瑕をも超えて聴き手に訴えかけてくるものがあったのだと思います。
その後若木さんは、ネイガウスともうー人のフェイヴァリット、ソフロニツキー、それにその周辺の演奏家のレコードを聴いていくうちに書籍『ロシア・ピアニズムの系譜』の存在を知り、著者の佐藤泰一氏とも知己となり、ついには再版するに至ってしまうのです。この辺りの詳しい経緯については、雑誌『Esquire』の9月号にも掲載されています。
クラシック音楽は敷居が高い、などと言われ、初めて聴いてみようという方にとっては、何から聴き始めれば良いか戸惑われる方も多いと思います。定番通り大作曲家の名作の名演奏から始めるのも一つの方法ではありますが、若木さんのように「クラシック」という大きな枠を意識せず「ロシアピアニズム」というージャンルとして聴き始めるのもまた一つの方法ではないかと思います。
この『ロシアピアニズム』、あるいはその演奏を通じて、新たにクラシックに興味を持たれた方がクラシックの世界へと入る一助になれば、再版の意義もより高まるのではないかと思います。