【本の街】No. 9 「いい音」とは?(III)

「いい音」を再現するためには、物理的な音響特性などはどうでもよい、ということではなく、物理特性は良いに越したことはないけれども、物理特性ばかりを追求して目的であるべき音楽の再生、もっと言えば音楽的感動の再現、がなおざりにされているのでは本末転倒ではないでしょうか。

さまざまなレコードを聴いていると(LPに限らず、78回転SP盤でさえも)、物理特性は劣っているものの音楽的な感動が強く伝わってくるレコードというものがあります。逆に、吃驚するような鮮烈な音が再現されているにも関わらず、音楽的内容の空虚なものも残念ながら数多く存在します。

現在の技術では演奏された内容を完全に再現することは不可能ですから、もしその演奏体験を再現するとすれば、再現可能な範囲の中で記録するより他ありません。

ここにレコーディングプロデューサーやレコーディングエンジニアの存在意義があると言えるでしょう。作家が、文章という限られた表現方法の内で情景や心象を描いて見せるようにして、レコード製作者は、録音媒体の限界の内に自分の体験や感動を封じ込めるのです。

したがって、演奏家はもちろんのこと、レコードの製作者にも技術や知識だけではなく、音楽に対する感性や情熱、そしてなによりも演奏に対する共感が必要です。誰が共感しなかった演奏のレコードに、音楽的感動を記録することが出来るでしょうか。

ところが、良い音楽を再現したいという欲求から追求されていたはずの物理特性の良い音というものが、いつの間にか「良い物理特性で再現されたものが良い音(音楽)である」というように主客転倒されてしまったのです。

あるいは、良い音という計測のできない領域に対する直感への自信の無さが、数値で優劣が判断できるものとして「物理特性の良さ=良い音」という図式を生み出したのかもしれません。

私には、物理特性の向上に反比例するようにして、レコード文化の、良い音を求める精神とでもいったものが矮小化していったように思えてなりません。──「録音の古さから音が十全ではない、したがって推薦には値しない」というようなレコード評はもはや定型と化しています。

ともあれ、本質的な意味での「いい音」というものは、数値や物理特性の優劣で決められるものではなく、それぞれの聴き手の心の中にのみ見出せるものではないかと思います。

作曲家の音楽に感動した演奏家、その演奏家の演奏に感動した聴衆(レコード製作者)、その記録に感動する我々レコードの聴き手へと、「いい音──良い音楽」を通して伝わってくるものは共感や感動、体験であり、音の波形ではないのです。

〔本の街 2004年4月 掲載〕