コンスタンチン・リフシッツ演奏会(平均律クラヴィア曲集)

先日、賛否の声渦巻くペーター・コンヴィチュニー演出の「サロメ」を聴いてきたのですが、その感想はさておき、昨年のコンサート記を続けることにします。

ようやくと年末に近づいてきて、12月23日、24日のコンスタンチン・リフシッツ演奏会です。リフシッツは23日に平均律クラヴィア曲集全曲を、24日にゴルドベルク変奏曲を弾くという、なんとも大胆な選曲、かつ日程です。巷は気もそぞろの12月24日にゴルドベルクを聴くというのも、なんともはや…。

ゴルドベルク変奏曲は、私のもっとも好きなピアノ曲の一つなのですが、今を去ること20年ほど前にニコライエワの演奏を聴いて以来、演奏会ではなかなか聴く機会のなかった曲でもあります。数年前のコロリョフの演奏会なども食指を動かされたのですが結局忘失してしまい、後で聞けばそれほどでもなかったとのこと。なかなか縁に恵まれないのです。

リフシッツについては名前を知っている程度だったのですが、平均律とゴルドベルクを連日演奏すると聴いて、つい触手が動いてしまったのです。

平均律については、全曲を演奏会で聴いたことは一度もなく、最近でこそ、ポリーニやシフが俎上に乗せてはいますが、実際演奏会へかけられることもそれほど多くはないのではないでしょうか。リフシッツは、全曲を1日で演奏してしまおうということで、前半に24曲、後半に24曲、間に数時間のインターバルが開くため、ほぼ半日がかりという、まるでマラソンのようなコンサートです。

肝心の演奏ですが、まずつまずきそうになったのがその配曲です。前半24曲というのは、実は第1巻の1番、第2巻の1番、第1巻の2番…というように、2巻を交互に弾き、12番までを弾いたのです(もちろん演奏会前から分かっていたことではありますが)。

普段レコードでは、全曲を聴くにしても、抜粋を聴くにしても、たいてい1巻と2巻は分かれており、またこれは勝手な思い込みかもしれませんが、第1巻の24曲、第2巻の24曲というものは、24曲で一つの組曲のように構成されているように感じるのです。ことに第1巻でハ長調の前奏曲から始まり、ロ短調の壮大なフーガで終わるさまは、調性という宇宙を描いた壮大な絵画であるようにすら思えるのです(第2巻に関しては、もう少しカジュアルな、あるいはロマンティックな雰囲気を感じるのですが)。

さて、その第1巻と2巻とが混ざって出てくるわけですから、聴く方としてはいまいち調子が出ないのです。とはいえ演奏は、美しい音色、ほぼ完璧にコントロールされた打鍵、さらには暗譜での演奏など、こと演奏技術に関しては(あくまで素人の私が見る限り)非の打ち所が無いといってよいような演奏でした。

しかし、その完璧な演奏から生み出される音楽には何かが足りないのです。いや足りないのではなく立派すぎたのかもしれません。バッハの楽譜を設計図とした建造物を、大聖堂のように、あるいは細密画のように、いささかの狂いもなく緻密に作り込んでいるように感じられたのです。しかし困ったことに音楽は大聖堂でもなければ、細密画でもありません。常にゆらぎ、うつろい、現れては消えていく蜃気楼のようなものです。そのゆらぎや頼りなさを確固たる形あるものとして表されてしまうと、それは音楽のようであって音楽とは異なものとなってしまうように思えてならないのです。

大気中をたゆたうような一見捉えどころのない音楽作品を、一瞬の閃きでつかみ取り、音とするのが演奏家という芸術家の使命でもあるでしょう。しかしリフシッツの演奏は、漂う音楽を捉えることをあきらめ、音楽の外観、表面を緻密に、しかしまるで形骸のように、再現するという道を選んだように思えてなりません。

誤解のないように書いておきますと、リフシッツのピアニストとしての技術的側面は、大変に高度なものであることは間違いありません。しかし残念ながらその技術によって生み出された音楽には、音楽の持つゆらぎ、息遣いといったものが希薄であったように私は感じたのでした。

とはいえ、第1巻ロ短調のフーガなどは実に美しく、聴き入ってしまったのですが、その後に第2巻の前奏曲が出てくるのですから……最期まで調子の狂わされた演奏会でした。