ストリャルスキー門下の天才少年2人。

ミハイル・フィヒテンゴルツ(1920–85)とボリス・ゴルトシテイン(1922-1987)は、共にオデッサでストリャルスキーに学んだのち、モスクワでヤンポルスキーに師事するという、当時の天才ヴァイオリニストの歩む道を辿りました。

1935年、ゴルトシテインはヴィエニアフスキー・コンクールで優勝し、若すぎるソ連邦の英雄となります。1937年のイザイ・コンクールがストリャルスキー門下のハイライトで、オイストラフ、エリザヴェータ・ギレリス、フィヒテンゴルツ、ゴルトシテインが上位を独占しました。しかしゴルトシテインは戦後、目に見えないユダヤ人差別に苦しむことになります。当時のユダヤ蔑視主義者たちは「スターリン賞を受けたユダヤ人」をどう処遇してよいか分からなかったのです。グネーシン音楽大学教授という相応しいとはいえない地位に置かれたゴルトシテインは(ここで唯一の有名な弟子ザハール・ブロンを教えている)、1974年ドイツへ亡命することになります。

フィヒテンゴルツもまたスターリンの時代に翻弄されたヴァイオリニストで、政府高官の娘と結婚をするものの、その高官であった義父が失脚し、フィヒテンゴルツは離婚を余儀なくされます。失意のフィヒテンゴルツは精神を患って手に麻痺を起こし、ヴァイオリニストとしての道を断念せざるを得ませんでした。精神療法を受け、グネーシン音楽大学で教鞭をとるようになった頃から手の麻痺も回復しはじめ、1960年代になってようやくヴァイオリニストとして再起を果たします。フィヒテンゴルツは、この頃からバッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ》をレパートリーの柱とし、ソ連のヴァイオリニストとしては例外的に(もう一人ピカイゼンがいますが)全曲を録音しています(5曲がLP録音された後、全曲がCD発売されましたが同一録音かどうかは未検証)。彼のストイックなまでのバッハは、悲痛な叫びのようにも、その先に救いを得たようにも聴こえますが(故にあまりレコード・ファンには好まれませんが…)、バッハの作品こそが彼に精神的な恢復を与えたように感じられてなりません。

波乱の人生故か、フィヒテンゴルツは65歳の若さで心臓麻痺を起こして亡くなり、ドイツのゴルトシテインも後を追うように65歳で没しました。

なお、写真にはミハイルがミーシャ、ボリスがブーシャと愛称が表記されていますが、当時のSPレコードにもこの名前が記載されています。また、ゴルトシテインは一昔前はゴールドシュタインなどとも呼称されていましたが、原語にうるさい方などは、ガリトシテインと呼ぶようです。ロシアでは「o」を「ア」と発音するので、「Go」が「ガ」になるのですが、原語主義もここまで徹底しなくてもよいでしょう。

フィヒテンゴルツ:88×135mm 厚紙プリント。角にマイナーな折れ等。

¥ 20,000

ゴルトシテイン:88×135mm 厚紙プリント。良いコンディション。

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